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58 小野田寛郎さんを考える6

 何事につけ大事がなされる場合は陰に陽に、土台、橋渡し、立役者の存在が大きい。


冒険家・鈴木紀夫青年

 小野田さんの場合は小野田さんの「...フィリピン・ルバング島で戦い続け、戦後29年がたった時、冒険家の鈴木紀夫青年との奇遇によって僥倖にも帰国することができた...」(1995年8月16日付朝日新聞"「戦後二十一年」に思う")から、その間の事情がよく分かる。もう少し敷衍(ふえん)しておこう。


 鈴木(当時24歳)は世界を放浪し、小野田さんと雪男に会うのが夢だったという。1974(昭和49)年、鈴木は一人で島にやってきて、テントを張った。気付いた小野田さんは、鈴木の前に現れた。小野田さんはキャンプを張られ邪魔だったので、排除するため銃を構えて「オイ」と声を掛けた。


 鈴木は両手を上げて「僕、日本人です」と叫んだ。...その夜、「日本へ一緒に帰りましょう」という鈴木と語り明かした。小野田さんは若者に少しずつ警戒を解いていった。鈴木は山(島)に入る時、自分の時計をぶん投げて壊した。山の中は時計を持って生活するような現代社会とは隔絶している。僕の気持ちが分かってもらえるだろうか、とも語る。


 後日、鈴木は小野田さんの元上官谷口義美と再びキャンプを張り、小野田さんと再会を果たし、帰国の途に就いたのは前述の通りである。鈴木の千葉市の実家の居間には、小野田さんの書いた「真の英雄」の色紙が掲げられているそうだ。小野田さんは命を顧みずに行動した鈴木に「君こそ真の英雄だ」と語っていたのだという。


 鈴木は86年に念願の雪男を探しにヒマラヤに行き、そこで遭難、帰らぬ人となった。


 数奇な運命 

 小野田さんは、1945(昭和20)年9月1日 戦死▽51年12月 死亡取り消し▽54年5月8日死亡。郷里に墓が建つ▽74年3月10日 救出。父種次郎は、墓をなでながら「こいつがいよいよ帰ってくる」と放心したようにつぶやく。私は「救出」と新聞・雑誌にならって書いたが、しっくりしない。小野田さんは自らの意志で出てきたのであろうから▽和歌山県が死亡を取り消し、戸籍を復活する▽75年ブラジルに渡り、牧場開拓▽96(平成8)年5月 ルバング島訪問。奨学金として2万ドルを寄付。


 鮮やかな転進 

 「鮮やかな」より「見事な」とした方がよいのかもしれない。

 衣食住なく、誰からもどこからも何一つ援助なく、30年の密林生活から、いきなり現代の真っただ中へ。世間にチヤホヤされることなく、痛ましいほどの律儀さと誠実さ。苦闘の歴史がズッシリとあるだけにやりきれない。


 そして翌75年、ブラジルに渡り牧場開拓。あえて肉体酷使の労働の道を選ぶ。牧場の地平線に沈む夕日を眺めながら、日本がまた沈むことがなければよいが、と語り合う。


 84年、福島県に「小野田自然塾」を開校。青少年に自然の脅威と大切さを教えんがためという。何という見事さであり、鮮やかさだ。


 小野田さんの近況

 信濃毎日新聞(2012年4月6日付)に今年3月、90歳になられたという小野田さんの近況と、馬上の勇姿ともいえる写真が載った。背筋がピンとして正に颯爽。後方の緑の平原に羊が群れている。


 記憶力は全く衰えず、ほとばしる生命のたくましさは頼もしい限りだという。充足感のあふれた「美しい晩年」のお手本がそこにある。先年30年間を過ごしたルバング島を訪れたという。恩讐を超えてということであろうか。


 いま日本は原発問題を頂点として、ただならぬ事態にある。平和への理念然り。自然への対し方然り。広島の原爆慰霊碑の"安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから"どころか、繰り返すことを当然とし、回避することなき昨今だ。日本はいまこそ小野田さんの行動に深く深く学ぶべきときだ。

 (「小野田寛郎さん」を採り上げるに当たって、朝日新聞、読売新聞、信濃毎日新聞ほかの諸紙、雑誌の各種、日野原重明氏の著述などを参照した。お礼を申し上げたい)。

(「小野田寛郎さんを考える」の項終わり)

(2012年9月22日号掲載)


 
美しい晩年