
『長野城山学校百年史』によれば、1954(昭和29)年6月、「盲ろう学校及び養護学校への就学奨励に関する法律」が制定され、普通学級における知的障害児の指導についての具体的対策の動きが起きてきた。
同年、長野市立城山小学校は、県教育委員会指定の知的障害児実体調査校として、諸検査を実施した。このため職員は鈴木ビネー法・テスター講習を受け、さらに日光市で開催された特殊教育指導講習会に職員1人を派遣した。
翌55年、専任の係を置き、校内の児童の調査、対策事例研究に着手した。56年に学級設置の申請を出したが認可されず、翌57年に認可され、市予算20万9177円、国庫補助4万5000円をもって学級が設置された。開設は同年6月22日で、当初の学級児童数は11人で1学級であった。
指導領域とその内容としては
▽生活領域 着衣・食事、勤労、あそび
▽健康領域 安全と休養、運動
▽情緒領域 音楽、造型
▽生産領域 飼育・栽培、園芸、紙工、竹工、粘土
▽言語領域 聞く、話す、読む、書く
▽数量領域 計算、分数、小数、図形
が目標とされていた。
小学1年生から中学2年生までの十数人の知的障害児たちを1人の教師が指導することは至難の業と言わざるを得なかった。
公認された担任教師は宮沢恭久一人であった。日常生活の指導から各領域の指導まで、宮沢教諭は私生活を全て犠牲にして子どもの指導に打ち込んだ。
そんな時に、この仕事を無償でお手伝いしようとする奇特な人物が現れた。それが後の長野市長(当時は県会議員)夏目忠雄の長女、幹子さんである。幹子さんは主として中学に在籍していた知的障害児に対し、宮沢教諭と共に2、3年間、毎日奉仕活動を続けた。それを夏目一家は家族ぐるみで応援したのであった。
筆者が柳町中学に奉職中のころ、幹子さんがよく担任の生徒のことで在籍校へ連絡のために来られた姿を思い出す。
(2012年10月27日号掲載)
=写真=城山小に設置された養護学級