記事カテゴリ:

020 琵琶湖周航の歌 ~青春の感傷しみじみと~

琵琶湖周航の歌

一、我は湖の子 放浪の旅にしあれば しみじみと

昇る狭霧や さざなみの

滋賀の都よ いざさらば

二、松は緑に 砂白き

雄松が里の 乙女子は

赤い椿の 森陰に

はかない恋に 泣くとかや

    ◇

20-utakikou-1020p1.jpg

 水鳥の観察に熱中しながら岡谷市の諏訪湖畔を歩いているときだった。目の前にこつぜんと銅像が現れ、思わず立ち止まった。傍らの碑には「琵琶湖周航の歌」の歌詞が刻まれている。はるか遠い琵琶湖の歌がどうして、ここに?


 銅像を挟んでもう一つ、別の「小口太郎顕彰碑」を読み進むうちに納得できた。作詞者小口が岡谷の出身だったからだ。碑にはこうある。

三高生であった京都時代には 水上部(ボート部)に属し 琵琶湖周航中に 故郷の諏訪湖に思いを馳せながら「琵琶湖周航の歌」を創作し大正7年に発表した 大正のロマンチシズムと自然の美しさの中に 人間の喜びと悲しみとが詩情豊かにうたいこまれている


20-utakikou-1020p2.jpg

 小口太郎は1897(明治30)年8月30日、当時の諏訪郡湊村花岡に生まれた。諏訪湖の南西部に当たる。だから銅像も、花岡地区に建てられた。湖水が天竜川へ注ぐ釜口水門と隣り合う公園で、湖面と向き合う。


 諏訪中学校、今の諏訪清陵高校を卒業し、小学校の代用教員を1年務めた後、京都の第三高等学校に入った。それが名曲「琵琶湖周航の歌」作詞につながったのは、顕彰碑にあるとおりだ。


 夢と希望を膨らませつつ、同時に理想と現実の相克に悩む青春真っただ中。仲間とボートをこぎ、広い琵琶湖を巡る。きらめく水しぶき、肌をかすめる風に、諏訪湖の面影を重ね合わせるのは、ごく自然だったろう。


 歌詞は全部で6番まである。〈波の間に間に漂えば〉と3番に続き、6番の〈語れ我が友 熱き心〉で終わる。


20-utakikou-1020m.jpg

 この間にちりばめられた甘美と哀愁の情緒的詩句が、人を引き付けてやまない。〈行方定めぬ 浪枕〉 〈仏のみ手に 抱かれて〉 〈古城にひとり 佇めば〉...。


 明治から大正に移って間もない1910年代半ば、京都の学生の間で英詩の翻訳に曲を付けた歌「ひつじぐさ」がはやっていた。小口が練りに練った歌詞も、このメロディーに乗り「琵琶湖周航の歌」として、多くの青年に愛唱される。


 だが、当の作曲者、結核に侵された身で独り音楽活動に打ち込んでいた新潟生まれの吉田千秋は、24歳の若さで死去してしまった。


 悲劇は続く。東大に進み、通信分野などに卓越した才能を発揮した小口は、神経衰弱で入院中、26歳9カ月の命を自ら絶った。


 これも青春の断面だろうか。諏訪湖畔の銅像は本3冊を小脇にふくよかな表情で、じっと湖上を見詰めている。


 〔旧制高校〕現行の6・3・3・4制以前の高等学校。東京の一高、仙台の二高、京都の三高など全国に48校。ほぼ無試験で大学へ進学でき、青春謳歌の3年間だった。

(2012年10月20日号掲載)


=写真=諏訪湖畔にたたずむ小口太郎像

 
愛と感動の信濃路詩紀行