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22 奇跡の再会 〜米国のパーティーで一騎打ちの相手と〜

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 太平洋戦争開戦から50年の節目を迎えた1991(平成3)年の秋、米国南部連邦空軍会(CAF)から零戦搭乗員会(現在はNPO法人零戦の会)に、テキサス州ミッドランドにできた航空博物館の開所式典への招待状が届きました。


 75歳だった私にも白羽の矢が立ち、代表として他の4人の仲間と12月3日に成田を出発しました。カリフォルニア州のチノ航空博物館では、第2次世界大戦時に使用された旧日本軍の「雷電」「秋水」が各国の戦闘機と並べて展示されており、感慨無量でした。また「ゼロファイター(零戦パイロット)が来館する」というので小学生たちが歓迎してくれたのもうれしかったですね。


 健闘をたたえ合う

 6日のCAF主催の歓迎夕食会にはアイゼンハワー大統領のお孫さんも出席し、和やかな雰囲気のパーティーでした。日米の歴戦の勇士たちは通訳を通じて親しく語り合いました。たまたま隣に来た190センチほどの背の高い男性が「あなたはどこで戦ったのですか?」と聞いてきました。


 私はガダルカナル島でのグラマンとの一騎打ちを思い出し、空中戦で負傷しジャングルへ不時着した様子を話しました。すると彼は時間や場所を詳しく聞き、交戦状況を確認すると「それは、僕だよ」と叫ぶではありませんか。撃ち落として死んだとばかり思っていた相手と再会できるなんて。何という奇跡でしょう。「良かった!」と互いの手を固く握り締め、肩を抱いて健闘をたたえ合いました。


 彼の名前はジョー・フォース。初めて挑んだ相手が私だったそうです。あの日、私の銃弾を250発以上受けながら、辛うじてヘンダーソン飛行場に着陸して助かったそうです。その後、ガダルカナル戦では日本軍機を26機撃墜し、ヒーローになったそうです。戦後は出身地のサウスダコタ州知事を務め、会った時はアメリカンフットボール協会理事長という肩書の人物でした。


 翌日は航空博物館の公式開所式典に参加し、私は日本代表として2万〜2万5000人の出席者を前に祝辞を述べ、万雷の拍手に胸が熱くなりました。シンポジウム終了後も市民のサイン攻めに合い、とても驚かされました。


 出発前は、米国民から我々はどんな目で見られるだろうかと少なからず心配でした。かつては鬼畜米英と罵倒していたのですから。ましてや戦争で家族を失った人々の胸中を思うと複雑な心境でしたので、陽気で相手をたたえる国民性には感服しました。


 不戦の誓いを強く

 私は1週間の滞在で、かの太平洋戦争は何であったのか。また両国民に結果として何をもたらしたのか。深い感慨と大きな疑問を持たざるを得ませんでした。


 ミッドランドの街頭で私の疑問に若者が答えてくれました。「あなた方も自分の意志で戦ったのではないでしょう。計画した一部の指導者の手先となり、国家の命令で仕方なく戦争を行ったと思います。私たちアメリカの先輩たちも同様です。だから今私はあなたたちを恨んでもいないし、このように親しく語り合えることが楽しいのです」


 この言葉に私は胸が熱くなりました。そして誠意を持って対話をすれば理解し合える、争いや憎しみをなくすことはできると、不戦の誓いを強くし、次世代に伝える責任を痛感しながら帰国しました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年9月29日号掲載)


=写真=再会したジョー・フォースと


 
原田要さん