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25 最期を報告 〜息絶えた長野中後輩 60周忌に情景お伝え〜

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 イギリスに渡った余韻も覚めやらぬ2001(平成13)年12月、私は真珠湾開戦60周年記念「日米友好親善ハワイの旅」に参加しました。


 同月3日、ハワイ州知事を表敬訪問し、その後、日本海軍基地を慰霊参拝。攻撃で沈没した戦艦アリゾナの海上に造られた記念館の艦上から、戦死した日米パイロットに慰霊の献酒を行いました。


 パーティーの席上、ガダルカナル島での体験を発表した私に、愛知県から参加したメンバーの一人から「丸山忠雄君とは予科練の同期で、長野中学(現長野高校)出身と言っていました」と驚くべき話を聞かされました。


 不時着し必死に脱出

 1942(昭和17)年10月17日、米グラマン機との一騎打ちで左上腕部貫通の重傷を負った私は、ジャングルのヤシの木に激突し不時着しました。どのくらい時間がたったでしょうか。ガソリンをびっしょり浴びた私は、息苦しさで気がつきました。機体は逆さまに宙づりになっていました。早く脱出しないと引火してしまうため、右手で周囲をかきむしり、爪先に血を流しながら、やっと顔だけが機体の外に。死にもの狂いで足を踏ん張り、機体の下からやっと抜け出ることができました。


 極限状況の中で体力を使い果たした私は、焼けつくような喉の乾きを覚え、草むらのどす黒い雨水のたまりに顔を突っ込んで飲み干しました。ようやく落ち着きを取り戻した私は、海岸へ向かいました。すると前方にヤシの木をなぎ倒してつぶれている味方の3人乗り艦上攻撃機があるではありませんか。私は思わず「オーイ」と叫びながら駆け寄りました。


 「オー」と返してくれたのは、「隼鷹」から発進した佐藤寿雄さんでした。機長は頭部貫通で即死。後部座席の偵察員・丸山忠雄さんは、大腿部を機体に挟まれ苦しそうにうめいていました。その時は名前も知りませんでした。なんとか救出しようと、佐藤さんとできる限りの手段で試みましたが、工具もありません。


 「爪と髪を母に...」

 そのうち交わす言葉の中にあきらめの色が出始め、私はヤシの実の汁を飲ませながら「頑張れ、頑張れ」と声を掛けました。しかし、ついに彼は「爪と髪を母に頼みます」と口走り、ガックリと息絶えてしまいました。2人の遺体にヤシの実と草花を供え、翌朝、涙の別れで現場を去りました。


 その後、佐藤さんとは霞ケ浦航空隊で再会しましたが、台湾沖への特攻出撃で戦死されました。戦後、福島県の佐藤家を訪問し墓参りをしましたが、佐藤さんと最期をみとった偵察員については、名前のみで調べるすべはありませんでした。


 ハワイから帰国後、早速、長野中学の同窓会名簿を調べると「丸山忠雄=戦死」の記述が。それ以上の情報は得られず、同窓会員の桜井一郎さんに依頼し、2002(平成14)年2月26日付の「長野市民新聞」に「丸山さんの遺族どこに? 最期の情景伝えたい」という記事を出していただきました。その結果、多くの方から情報がもたらされ、丸山家の住所がわかりました。


 約1カ月後の3月24日、青木島町にお住まいの丸山さんの兄・登美雄さん(82)を訪ねました。妹の彰子さんと静子さんも駆けつけ、集まった遺族に丸山さんの最期の情景をやっとお伝えすることができました。この日は丸山さんの60周忌の彼岸供養になりました。

(聞き書き・松原京子)

(2012年10月20日号掲載)


=写真=丸山さんの遺族に忠雄さんの最期の情景を報告する原田さん(左から2人目)=2002年3月28日付長野市民新聞

 
原田要さん