
通称は「頼朝山砦」とも言われているが、後背の葛山城の支城的役割を果たしていた砦であり、「長野市誌」では中世の山城としている。城域は小規模であるが本郭、曲輪、土塁、堀切などの遺構を残しており、山城と呼ぶにふさわしい。
本郭は20メートル程度の方形で、本郭を囲んで帯曲輪状の平地が確認される。本郭から葛山城へ通じる尾根筋には曲輪、堀切の遺構があり、葛山城との連携等で重視したことがうかがえる。茂菅地区内の国道406号「頼朝山トンネル」の山頂に築かれた山城で、茂菅集落との標高差は約150メートル、裾花川からは250メートル、裾花川が防護の役割を果たしていた。
裾花川を挟み旭山と対峙する位置にあり、戦国期には敵対関係にあった旭山城に対する前線基地となった山城である。戦国期に葛山城主の落合氏が築城したと推察されるが、詳細について確かな伝承はないという。
1557(弘治3)年、武田軍の葛山城攻めで落城したが、支城であるこの城も攻撃の対象になったと思われる。葛山城では城主の落合氏、援軍の吉窪城主小田切氏、葛山衆などの多くが戦死。城に詰めていた女性たちは本丸の谷に身を投げて亡くなるという悲惨な歴史を伝えている。この谷は「姫谷」といわれ、本丸の一隅に小さな祠を安置して哀史を伝えている。
頼朝山城への登路は北方の静松寺からのルートと、市街から国道を進み、茂菅大橋の手前から右側に小路を上がったところに歩道が始まる2つのルートがある。所要時間はいずれも30〜40分程度。歩道はよく整備されており、身近なトレッキングには最適なコースである。
源頼朝が善光寺に参詣した折、静松寺に寄進したことから「頼朝山」と名付けられたというが、その真意については霧の中である。頼朝が来訪したのは1196(建久7)年。各地に痕跡を伝える逸話を残している。
(2012年10月20日号掲載)
=写真=山頂が頼朝山城跡