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02 聞かされた武勇伝 母は師範で養護教員

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 私が生まれた1939(昭和14)年3月15日の半年後、父は中国北西部で戦死しました。28歳でした。お骨の代わりに送られてきたのか、「戦死」と裏書きされた小さな1枚の写真を母は大切に保管しており、今は私の手元にあります。


 小学校教員だった父は、戦死の前年に宣撫官(せんぶかん)を志願して中国に渡りました。軍人ではありませんが軍属で、治安維持のための広い教育活動を行うのが任務でした。死因は落馬と聞いています。知事並みの待遇との話に乗って大陸に渡ったとか、母と駆け落ちして北海道まで行ったとか、大酒飲みだったとか、父の武勇伝はだいぶ聞かされました。


再婚しなかった母

 母は当時27歳。東京の蕎麦屋に嫁いでいた父の姉に子がなく、私を引き取るからと、母に再婚を勧めたようです。母が私を手放していれば、今ごろはさらしの鉢巻きをして信州蕎麦を打っていたはずです。しかし母はずっと再婚せずに過ごしました。看護師で長野県師範学校の養護教員という定職があったから、できたことだと思います。


 父の生まれ変わりのような一人息子の私への期待を、母が口にしていたわけではありません。でも母子の間ですから、言葉にしない方が重いということはありますし、態度の端々に表れます。思春期の一時期、「俺をどこへでもくれてしまって、再婚していればよかったのに」と感じたこともありましたが、私の方も言葉にしたり、反抗するようなことはありませんでした。


 幼いころの記憶としてぼんやり浮かんでくるのは、土蔵の土の荒壁です。須坂市の母の実家の近くに、ちょうど一茶の終焉の家のような粗末な土蔵があり、母と私はそこで暮らしていました。母が勤めに出ている間、千太郎さんという母の父親が孫の面倒を見ていたようです。

音を上げた祖父


 千太郎さんは「須坂の今良寛さん」と呼ばれていたそうで、近所の子どもたちを集めて百々川(どどがわ)で泳がせたり、ヘビを捕って蒲焼きにして食べさせたりと「河原の学校」の「校長先生」でした。それで私も一緒に遊ばせてもらったのでしょう。


 あるとき私がいたずらをして、左の指を包丁で深く切ってしまいました。千太郎さんは母にこっぴどく叱られたそうです。また、母が新しい下駄を買ってくれたのに片方ないから聞くと、「どんぶらどんぶら流れて行った」と私が答えたそうです。案外、その辺に転がっていたかもしれないのに、子どものことだから、いい加減な話をつくったのかもしれない。母は自分で子どもを預けておきながら、父親を怒るわけですね。千太郎さんは暗くなりかけた川に、下駄を探しに行ったそうです。


 そんなことが重なり、「けさみ、もう勘弁してくれや」と千太郎さんが音を上げてしまい、母は次の私の預け先を探すことになりました。当時のことを私自身が覚えているわけではないのですが、きっとわんぱくだったと思います。父がいないから差別されたり、いじめられたのではないかと思う人もいるようですが、そんなタマじゃなかったですね。


 母方は女系で、千太郎さんも婿でしたし母も一人娘で、三男だった父が婿でした。私も一人っ子。母方の親戚というのは、もう皆無になってしまいました。

(聞き書き・北原広子)

(2012年11月10日号掲載)


=写真=28歳で戦死した父、喜三郎


 
山岸哲さん