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03 父の実家へ 〜おじは暴君の極み いとこは「臼田小町」〜

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 母と離れて暮らすことになった日の記憶は鮮明です。須坂の土蔵の我が家に、武一おじさんという、戦死した父の兄が迎えに来ました。父の喜三郎は三男。男4人、女3人のきょうだいで、武一さんが長男でした。


 私はこういう時は絶対に泣かない子だったらしい。おじさんはワンマンで自分の子どもも抱いたことがないといわれていた人なのに私をおんぶし、今は廃線になった長野電鉄河東線に乗り込みました。外は雨降りで真っ暗。車窓に映ったおじさんと、おんぶされた私の姿が脳裏に焼き付いています。こうして私は佐久市にある父の実家に預けられました。3歳か4歳でした。


佐久で大事にされ

 父の旧姓は桜井といい、佐久の旧家です。田畑があり食べ物に困らないどころか、戦争末期の当時としてはぜいたくな暮らしだったと思います。特に私は、父が戦死したかわいそうな子として、みんなに大事にしてもらいました。おばさんたちの嫁ぎ先も裕福で、毎年温泉場で長湯治していました。


 家族はおじ、おば、祖母、それから順子さんという娘さんが一人いました。順子さんは「臼田小町」と呼ばれた美人です。通っていた女学校の友達がよく遊びに来て華やかでした。私を弟のようにかわいがってくれました。順子さんが結婚した時は寂しかったですね。


 おばさんは働き者で菓子屋もやっていたため、お手伝いの小僧さんが同居していました。おばさんが作るまんじゅうは黒砂糖入りで皮が茶色。「まるやのまんじゅう」として人気があり、田植えや稲刈りのシーズンには、農家の人たちがお茶請け用に買いに来るので繁盛していました。自動車にいろいろな菓子を積んだ菓子問屋が出入りしていたのも面白かったですね。食糧不足の時代なのに白米を食べ、甘い菓子にも不自由しませんでした。


 父がいない私にとっての父親像が形成されたのも、この家でした。一昔前のホームドラマに、雷おやじがちゃぶ台をひっくり返す場面がよくあったものですが、ちょうどあれと同じ。武一さんは、ご飯が軟らかいと言ってはちゃぶ台をひっくり返し、湯加減が悪いと言ってはドラム缶の風呂をひっくり返す。寺内貫太郎なんてもんじゃない。


 すると、おばは泣きながらご飯を炊き直し、夜中でも井戸から水をくんで風呂をたき直すわけです。その上、おじはおばを座らせて説教。暴君の極みです。コマネズミのように働くおばは綿羊も飼っていました。餌のアカシアを取りに山に行き、背負い籠をいっぱいにして戻ると、また説教。「俺を放っておいてアカシア取りとは何事だ」というわけです。


 したたかなおば

 私は今でも覚えていますが、おばを座らせて「これから私は絶対にアカシアを取りに行きません」と復唱させていました。順子さんは騒ぎが始まるとスッといなくなり、私はその場にとどまってじっと様子を見ていました。それが「肝の据わった子だ」とおじさんの評価を高めることになったのですが、自分の家ではないし逃げ場がなかっただけです。


 おじさんが説教に疲れてへとへとになり、やっと終わったと私もほっとすると、すごいのはおばさん。「だけどなあ、アンタ」と言い訳が始まり、また振り出しに戻るわけです。おじさんの姿を見て私は「これぞ元祖日本の男だ」と憧れました。ただ、自分が家庭を持ってちゃぶ台返しをしたかというと、それはできませんでした。

(聞き書き・北原広子)

(2012年11月17日号掲載)


=写真=弟のようにかわいがってくれた順子さん


 
山岸哲さん