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04 幼少時代 〜佐久で外遊びに夢中 小学校入学で長野へ〜

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 幼児期に武一おじさんの暴君ぶりを見て育ったおかげで、もともと気が弱かったわけでもない私はますます鍛えられたと思います。中学時代の野球部に横暴な先輩がいて、耐えられずにやめる仲間が続出したときも私は平気。武一さんに比べたら、かわいいものでしたからね。


 ところが、この武一さんの上を行くつわものが佐久の家のお隣にいたのです。


 私は外遊びが大好きで、井出正好君という1つ違いの友達といつも魚や鳥を捕って遊んでいました。すると佐助さんという、彼のおじいさんが「お宅の哲さんは遊んでいればいい身分だろうが、ウチの正好は百姓の跡取りだ。手伝いもしないで遊んでばかりで困る」と怒鳴り込んでくるのです。


 さすがの武一さんもかなわない剣幕。家の中では見せたことのない神妙な態度で謝って帰ってもらっていました。もちろん、正好君はまた隠れて遊びに来ていました。


 後に私が山階鳥類研究所の所長になったときの重要な仕事の一つが寄付金集めでしたが、この井出正好君が東京で有力者になっていて多大な貢献をしてくれました。非常にありがたかったですね。それもあって昔の遊び友達のご縁が復活し、今はゴルフ仲間です。


気丈な少年に

 佐久の家に預けられている間、母は月に1度くらい様子を見に来てくれたと思います。今の小海線臼田駅が、当時は国鉄三反田(さんたんだ)駅で、おじさんの家はここから歩いて30分くらい。長野に戻る母を見送るとき、私は決して駅に入ろうとせず、手前にあった千曲川の橋のたもとで、くるりときびすを返したそうです。母は私の後ろ姿を見ながら泣いていたと、後から聞かされました。


 ホームに1人残る幼い息子を見ながら汽車の中で泣くよりいいじゃないか、とまで考えての行動ではなかったのでしょうが、自分の運命について泣いてもわめいてもしようがないという諦めは無意識に身に付いていたように思います。今日まで、何かに逆らったり抵抗する生き方をして来なかったのが、そのせいかどうかは分かりませんけれども。


 父の実家に預けられていたのは小学校入学までです。その割に皆さんとの交流が深く、記憶も鮮明なのは、学校が長い休みに入ると必ず佐久へ行って何日も過ごしていたからです。母と2人の暮らしから一転、何かしら騒ぎの絶えない家で過ごすのがとても楽しみでした。小学校低学年のうちから1人で汽車に乗って行き来し、それは中学まで続きました。


 今ご健在なのは順子さんだけです。順子さんは詩人で、絵も上手なアーティスト。ご夫妻とは今でもたまに昔話をすることがあります。武一さんも、晩年は優しくなったと聞きました。おばさんが営んでいた菓子屋は小僧さんだった人に譲ってしまいましたし、私の親族関係はさっぱりしたものです。 


生活が一変

 母が長野師範学校の養護教員だったので、私は附属長野小学校に入ることになりました。父の喜三郎を一番かわいがっていたということで、私のことも特別にかわいがってくれた祖母、よくしてくれたおじ、おば、きょうだいのように遊んだ正好君や順子さんと別れるのですから、うれしくなんかありません。広い家から、たった一間の間借りへ。白米もお菓子も食べ放題だったのが麦飯に。生活は、まさに一変しました。

(聞き書き・北原広子)

(2012年11月24日号掲載)


=写真=臼田に預けられた頃の私

 
山岸哲さん