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05 間借り生活 〜世尊院2階で9年間 母の遅い帰りを待つ〜

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 小学校入学を機に母と暮らし始めた場所は、善光寺の「世尊院」でした。日本では珍しい寝仏を安置し「釈迦堂」とも呼ばれるお寺です。1945(昭和20)年、敗戦の年ですから、都会で戦災を受けた人に部屋を提供していたのでしょうか。母屋の2階に数家族が間借りしていました。私の遊び場は善光寺になりました。


 城山小学校の学区ですが、母が現在の信州大学教育学部、当時の長野県師範学校に勤務していたので、私は附属長野小学校に通いました。そんな子は、火事で消失する前の善光寺本堂があった場所としても知られる松屋旅館の息子、俊ちゃんくらいでしたね。


提灯学校の附属中

 当時の附属中には専属の養護教諭がおらず、母が兼務していました。附属は「提灯学校」といわれるくらいに残業、会議が多いことで有名。養護教諭の母にどこまでの関わりが求められたのか知りませんが、子どもの私にしたら、とにかく毎日毎日帰宅が遅かったことが一番の思い出です。


 夕方、一緒に遊んでいた友達が一人、二人と減り、みそ汁の匂いが漂ってくる。ガキ大将で威勢よく遊んでいた私も、これはこたえます。みんな「ただいま」と家に帰るのに私は一人。裸電球のスイッチをひねって母を待つわけですが、腹が減ってしようがなかった。


 冬になるとへんとう腺を腫らして高熱を出し、学校を休むことがよくありました。こういうときも一人で布団にもぐって熱にうなされているしかない。すると、善光寺の参拝客を率いた案内人がお釈迦様の縁起を説明する声が聞こえてきます。もうろうとしながらも、繰り返し同じ口上を聞くものだからすっかり暗記してしまい、今でもそらんじることができるくらいです。


 隣近所の助け合いがあったことは、間借り生活の良さでした。お隣に、焼け出されて大阪から来た籾内さんという品のいい老夫婦がいて、「ボン、ボン」と、よく面倒を見てくれました。これがなければ小学生が一人でいられるわけがなかったと思います。


 毎日遅くまで働く母を待つという経験に懲りたせいか、結婚したら妻には家にいてほしいと思うようになりました。それで、実は少々乱暴なことをしたこともありましてね。


 私は最初の妻をがんで亡くしているのですが、彼女とは母親同士が親友というご縁で結婚することになりました。当時、小学校の養護教諭でした。最初の出産直後、まだ妻が入院中だったと思います。私は校長先生を訪ね、妻の退職届を提出しました。当人には断りなし。育児中は仕事を中断して家にいてほしい、という自分の希望からです。


 こんな日本男児が今どきいるのか、ということで校長は大変驚きましたが、その後の結婚生活に禍根を残すことになったのは否めません。ただ、私は今も、女性が家にいてきちんと目の届く子育てをすることで、子どもに関する問題の大方は解決するのではないかと、ひそかに考えています。


「女湯はダメ 男湯へ」

 世尊院での間借り生活は9年に及びました。小さな一間しかないのですから、鍋釜を廊下の一角に置き、煮炊きは廊下に並んだかまどでしていました。往生寺の方に落葉拾いに行った記憶もあります。もちろん風呂はなし。母に連れられて女湯に入る習慣を中学になっても続けていたら、さすがにあるとき「次からは男湯へ」と番台のオバチャンから注意されました。

(聞き書き・北原広子)

(2012年12月1日号掲載)


=写真=母と中学卒業時の私

 
山岸哲さん