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06 兄代わり 〜母が師範の学生呼び 格好の遊び相手に〜

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 一人っ子の私の姉代わりは「臼田小町」と呼ばれた順子さんでしたが、長野に来てから兄代わりが幾人もできました。母が長野師範の学生さんを私の遊び相手として付けてくれたのです。皆が腹をすかせていた戦後の食糧難時代。ご飯を食べられるというだけで来てくれたのではないかと思います。


 この兄貴たちはたいてい物理専攻で理科教師の卵。子どもの扱いは上手だし、ラジオ作りなど工作も得意で、好奇心いっぱいの私にとって格好の遊び相手でした。勉強を教えようなんて姿勢が皆無だったのも何よりでした。一人卒業して教員になると次の学生が来るというふうで、順次数人のお世話になりました。


風変わりな兄貴

 最初の兄貴だった柄澤智さんは、保健室を訪れては養護教員の母に「俺の女親は継母だから愛情がない」と家族の悩みを相談していたそうです。父親は大町市の有名な大校長先生。母はすっかり同情してしまったらしい。


 ところがある日、その継母という方が「いつも智がお世話になっています」とあいさつに見えました。立派な奥さまで、智さんの実母です。作り話を信じ込んでいた母はびっくりしていました。


 そんな風変わりな兄貴の2回目の任地は、当時の美麻村の小学校分校でした。「遊びに来い」と呼ばれて行くと、教師は兄貴と奥さんの和子さん2人だけ。学校の敷地内にどでかい鳥小屋を作って何十羽もの野鳥を飼い、給料が入ると「丸光」で電動の鉄道模型を買って教室中に列車を走らせたり、ユニークな教育というか、やりたい放題でした。その兄貴が若くして亡くなった時は泣きました。


 2番目の兄貴は百瀬久寿さん。彼が赴任した朝日村の朝日小学校に、私はなぜか1カ月ほども通った記憶があります。母も、私がいないと楽だから「百瀬兄ちゃんの所へ行って」と勧めるわけです。用意された専用の机で授業を受けると、何をやっても私が一番。ガリガリ勉強する生徒の多い長野附属の雰囲気とは大違い。男の先生ばかりの附属と違って担任が女の先生だったのも新鮮でした。


 最後の兄貴は武井昭文さんといって、後にNHK放送研究所へ内地留学し、学校放送の専門家として著名になった方です。それぞれ個性的な兄貴たちから受けた影響は大きかったと思います。


 こうして、よその学校を経験したことが関係するのかどうか、私が通っていた長野附属については、結構冷めた目で見ていたところがあります。割と早いうちから、附属の先生方の多くの関心は生徒よりも自分の将来にあり、自分の地域に戻って校長会の会長になるのが究極の目的ではないかと感じていました。私は2人の息子を附属には入れませんでした。


自然と教師の道へ

 周囲は教師ばかりの環境の中で、私も自然と教師への道を歩むことになるわけですが、それが自分に似合った職業だとも思っていました。というのは、教師はひとたび教室に入ってしまうと、先輩も校長も関係なくいきなりリーダーとして「お山の大将」になれるからです。


 小さいときは、がき大将。野球をやるなら絶対キャッチャーで、ピッチャーに球種を指図したり、守備位置を指示したいのが私の性格。新卒早々、一国一城の主になる職業はぴったりです。兄貴たちのユニークなクラス運営を見てきたことも、影響していたのかもしれません。

(聞き書き・北原広子)

(2012年12月8日号掲載)


=写真=最初の"兄貴"だった柄澤智さんと


 
山岸哲さん