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08 野鳥観察 〜羽田先生と出会う 「戸隠探鳥会」に参加〜

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 中学2年の時、私に転機が訪れました。「肺門リンパ腺」という診断を受けたのです。結核の入り口のような病気らしい。何の自覚症状もなくピンピン遊び回っていたのに、突然運動禁止を言い渡されました。これがなかったら、私はプロ野球選手を目指したかもしれませんね。たいていのスポーツは得意で、クラスマッチでは常に駆り出されていましたから。


 母は、私の有り余るエネルギーの持って行き場を探したかったのでしょう。信大教育学部の生物学研究室に連れて行きました。1952(昭和27)年のことです。そこで紹介されたのが羽田健三先生でした。長野県の理科教育に大きな影響を与えることになる生物学者で、専門が鳥類生態学。中学の時点でこの先生と出会ったことが、私のその後を決定付けるのに非常に大きな意味がありました。


高校の生物教師から

 先生は大町南高の生物教師を経て信大に着任したばかりでした。痩せて怖そうな顔付きで、せかせかと試験管を洗いながら「こんなことまでやらされる」というような愚痴をこぼされていたことを覚えています。当時は助手で、教授の雑用が多かったわけです。


 一方で先生は「戸隠探鳥会」を発足させていました。母が私を連れて行った理由がこれ。好きな小鳥を見に行くくらいの運動ならいいだろうというのが医師の見立てだったようです。野鳥観察のための山歩きがどのくらいの運動量なのか、知らなかったに違いありません。


 羽田先生が探鳥会を始めたのは「小中学校の教師になる者は、まず自然を知るべき」との持論に従ってのことでした。5月初旬の週末の1泊2日の探鳥会は後には一般に開放しながら、学生には必修にしていました。野鳥と一緒に植物についても学ぶ、いわゆる博物学の場です。専門的な会に私も参加することになり、野鳥への関心が一気に深まりました。子どもの遊びの延長線上で、たくさん卵を集めるだけでは研究になりませんが、羽田先生は私を子ども扱いすることなく研究の基礎を教えてくださいました。


 家では鳥類図鑑に熱中し、図書館に通って調べる時間も増えていきました。このころ自作した「観察ノート」が今も保存してあります。原稿用紙に研究レポートを図表入りでまとめ、自分で描いた鳥のイラスト入り表紙を付けてきちんと製本してあります。私は学校の勉強というものにさっぱり関心が持てず宿題も提出しなかったくせに、観察ノートだけはきちょうめんに作り、課題でもないのに勝手に先生に提出していました。


先生に講評求める

 その際、学級担任と理科と国語の先生の名前を入れた講評のための用紙まで付けていたのですから生意気ですね。さすがに附属の先生方は素晴らしく、実に的を射た評を書いていただいていることに感心します。もっとも当時の私の目的は先生に評を書かせることであり、内容は二の次でした。


 ここまで根気良く取り組んでいた中学時代の私への担任の評価は「根気がない」。通知票にいつもそう書かれていました。後の同級会で先生を問い詰めたところ「嫌なことをコツコツやるのが根気であり、お前のように好きなことをするのは根気ではない」と即答され、返す言葉がありませんでした。


 スポーツを禁じられた私に先生が命じたのは応援団長。選手で活躍するはずの大会で、しかも炎天下で体にいいはずがない。はらわたが煮えくり返る屈辱を味わった翌年の健康診断で肺門リンパ腺の疑いはきれいに消えていました。

(聞き書き・北原広子)

(2012年12月22日号掲載)


=写真=戸隠探鳥会に参加した私(前列中央) 最後列右端が羽田先生

 
山岸哲さん