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09 〜信教出版の設立運営に精魂〜

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 現在、県内には「信州教育出版部」という独立法人の出版会社が存在している。この前身が「信教出版部」である。信教出版部は戦後1947(昭和22)年6月、社団法人として独立して信濃教育会の研究物等を印刷出版し、長野県教育の進展に尽力してきたことは周知の事実である。

 

 戦後の印刷・出版の事情を見るとき、紙は配給統制下に置かれ、大都市における主要印刷工場は戦災により壊滅し、その復旧もならず、岩波書店をはじめ中央の出版社は長野市内の印刷所に出版物の印刷を依存。出版事業にはゆとりがなく、信教の出版物は容易に頒布されない局面に立たされた。

 

 この事態を解決するには、まず印刷技術と人が必要であった。しかし、信教には資金と経営者、技術者がなく、打開の道は容易でなかった。

 

 ところが時幸いに、当時の「信濃教育」編集主任、出版部主任であった淀川茂重の教え子たちがこれを聞き、伝統ある信州教育の危機を救うためならお手伝いさせてくださいと、資金面では夏目忠雄(後に長野市長)・渡辺仁兵衛(当時県議)らが、印刷技術面では中村政二・渡辺雄三らが中心となって、当時の主事、松岡弘(後に会長)に協力を申し出たのであった。

 

 夏目は当時、復員してきた直後で、戦後どうやって身を立てようかと思案していたときであった。この教育出版の事業に大きな意義を見いだし、信教出版部の設立と運営に精魂を傾けた。夏目たちが腐心したことは次の3点であった。

 

 (1)事業推進の上で本会(信濃教育会)に経済的な損失を与えないこと。

 (2)事業内容を本会を中心とした教育研究の推進に役立つものにすること。

 (3)本会と組織上、密接な連携を保持すること。

 

 この3点に沿って推進した事業例として、教科書の編集・発行があった。

 

 すなわち 戦後、民間の会社や団体に教科書編さんの道が開くと、信濃教育会はただちに小学校の理科、国語、家庭科の教科書編集に取りかかった。51(昭和26)年のことである。

 

 「教室から生まれる教科書」を目指した信教本は、現場の教師が編集スタッフの中心であった。信教本は3年後の54(昭和29)年4月から、県内の小学生たちの手に渡り始めた。その印刷・出版・頒布の仕事を推進したのが、夏目理事長を中心とする信教出版部であった。

 

 民間の地方教育団体が自らの力で教科書を発行したことは、全国でも稀有な出来事であった。夏目は61(昭和36)年から独立法人信教出版部の理事長として、この事業を積極的に推進した。

2012年11月24日号掲載)

 12代夏目忠雄の項おわり

 

=写真=信濃教育会発行の国語教科書