
神様で人気があるのは「お諏訪さん」「お八幡さん」。全国に諏訪神社は約6000社、八幡神社は4万社を超す。城山団地の「若宮八幡宮」=写真=もその一つだ。
私の祖母は赤沼の農家から市街の商家に嫁いで来た。年がら年中「おはちまんさん」を唱えていた。実家は農家だから、春の凍霜、夏の日照り、害虫、秋の台風被害に勝つため、三登山山麓の蚊里田八幡宮(若槻)に祈願していた。嫁しては、善光寺参拝のつど若宮八幡宮に足を延ばした。大事な祈願は、千曲市の武水別八幡神社まで遠征した。
戦いや競争、受験、商売に"勝つ"のが八幡信仰だ。祭神は一般に神功皇后と応神天皇の母子。朝鮮半島に遠征した伝説のスターだ。
「若宮八幡宮の創建は不明ですが、中央の指令で信越の守りとして八幡神を祀ったのが始まり。"若宮"というのは、中央の総社(そうじゃ)から招いたという意味。江戸時代には武神として松代藩士の崇敬を集め、1909(明治42)年に上松、湯谷、滝地区の各鎮守社が整理・合祀され、駒弓神社がこの地域の総社になりました。58(昭和33)年に城山団地、66年に湯谷団地が氏子に加わったのが経緯です」と郷土史研究の高橋明さん。域内の人口はざっと1万人近い。

八幡神は「八幡大菩薩」とも呼ばれ、神仏習合の典型。神様が仏教の菩薩を名乗るのは不思議だが、信者の都合で融通無碍(むげ)な神様と理解したらよいだろう。
古代史によれば、もともとは朝鮮半島の新羅に8本の旗(幡)と共に降臨し、渡来してきた神で、大分県の国東半島に定着(宇佐神宮)した。天下の情勢を見るのが敏で御託宣(=PR)が大変得意。
東大寺の大仏建立に困窮した聖武天皇に「私が仏教と天皇家を鎮護しましょう」と申し出て奈良に進出。大和政権のガードマンとなり、勢力拡大の先兵となった。
時の勢力と上手に結び、京都では石清水八幡宮になり、鎌倉では源頼朝の鶴岡八幡宮になり、徳川家康は富岡八幡宮(深川)として勧請。茨城では鹿島神宮になった。全国の庶民も軍神にあやかろうと、こぞって勧請した。
この地域の歴史で面白いのは、善光寺の裏山である地附山が周辺村民の薪取りの山であったことだ。山は厳重に管理され、地区や個人に区割りされ「割山(わりやま)」と呼んだ。薪がなければ炊事もできず、風呂にも入れないから、「割山」の重要さがわかる。
神社の祭りは、住民の団結や権利を確認する儀式でもあった。豪農や勢力のある商家は、相応の寄進や行政責任を担った。一般の村民は水利や道普請の人手を分担した。上松や滝地区は「山持ちの金持ち村」との評判もある。今は田畑や山林にアパートやマンションを建て、優雅に暮らす地主さんも目立つ。
神社のある城山団地一帯は、かつて水田や畑作地帯だった。市民の住宅ニーズに応え、行政が農家から借地して宅地を造成、提供した経緯がある。東北の湯谷や高台の湯谷団地も同様な歴史だ。
(2012年11月24日号掲載)