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023 がん研究の金字塔 ~実験成功の喜びが頂点に~

癌出来つ意気昂然と二歩三歩  山極勝三郎

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 ウサギの耳に、黒く粘っこいコールタールを塗り付ける。乾いて硬くなったのを剥ぎ取り、剥ぎ取った跡をつぶさに観察し、また塗り込む。


 その繰り返しの果て、がんがウサギの耳に発生しているのを、ついに確認した。1915(大正4)年5月、「癌出来つ」の瞬間である。成功の喜び、感激がこみ上げてくる。じっとしておれない。胸を張って「意気昂然と」実験室内を歩く。


 ここまでが長い道のりだった。東大医学部病理学教室の教授・山極勝三郎博士は、1905(明治38)年「胃癌発生論」を出版する。がんの治療のために発生原因を突き止める一歩を刻んだ。


 ところが、既に博士の体は肺結核に侵されていた。一時は絶対安静の闘病生活を強いられながら13(大正2)年、いよいよがんの予備実験に着手した。がんが刺激によって発生することを証明しようというのである。


 まず、実験用の動物として何が最適か、どんな刺激が効果的か...などを見極める必要がある。ウサギの耳に引っかき傷をつけ、エーテルやコールタールを擦り込んだり、薬品を注射したりする。


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 病身の山極博士では耐えられない。幸い、有能な助っ人、25歳の青年が現れた。東北大で家畜の寄生虫を研究し、博士の門をたたいた市川厚一助手だ。


 誰もがやりたがらない役割を市川助手は快く引き受けた。そしてコールタールを使ったウサギの耳に異常が生じることを突き止める。


 見込んだ通りの展開だ。14年4月、山極博士は本実験へと踏み出した。予備実験では15匹だったウサギを60匹に増やす。塗りつけるのはコールタール一本に絞った。


 耳の切り傷にコールタールを塗り、乾いたところを剥がしてまた塗る。ウサギは痛がる。次第に衰弱し、湿気にも弱いので梅雨の間に21匹が死んだ。市川助手もコールタールにかぶれ、顔が膨れ上がった。


 だが、ひるみはしない。ひたすら続けた。必ずがんは発生するとの博士の予測を信じるからこそだ。根気強い努力は人を裏切らない。


 衰弱した一匹の黒ウサギの耳に異常を見つける。切り取った一片を顕微鏡でのぞき、市川助手は震えた。何度見直しても、そこには確かにがん細胞が映っている。


 山極博士も顕微鏡に目を凝らす。一句が口をついて出た。今この句は、博士の出身地である上田市の上田城跡公園、山本鼎記念館前の碑に刻まれている=写真。


 まさしく世界で初めて人工がんの発生に成功した記念碑だ。晩秋の木漏れ日の中、静かにたたずむ博士の胸像は、ゆったりと満足げだった。

(2012年12月1日号掲載)


 〔幻のノーベル賞〕66(昭和41)年10月、元ノーベル賞選考委員、スウェーデンのフォルケ・ヘンシェン医学博士が来日。山極博士にノーベル賞を授与しなかったのは今でも残念に思う、と語った。

 
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