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024 お手玉 ~喜びも悲しみも包み込み~

一番はじめは


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一番はじめは一の宮

二また日光東照宮

三また佐倉の宗五郎

四(し)また信濃の善光寺

五つは出雲の大社(おおやしろ)

六つは村村(むらむら)鎮守(ちんじゅ)さま

七つは成田の不動さま

八つは八幡の八幡宮

九つ高野の弘法さま

十は東京博覧会

    ◇

 これって、歌なの? と、若い世代には全く知らない人が多い。戦時中に少年少女だった70代以上の方々は、口ずさむか、耳にしたことが多分ある。


 江戸後期に原型が芽生え、明治半ばから昭和にかけて、全国各地で親しまれた「お手玉唄」の一つだ。「手まり唄」としても、人気があった。口伝えに広まっており、誰が作詞したかは分からない。


 曲は旧陸軍の行進曲「抜刀隊」のメロディーが使われている。明治10年代、音楽隊の指導に招かれたフランス人教官、シャルル・ルルーが作ったものだ。


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 口伝えの歌らしく歌詞には、様々な変化がある。ここでは北原白秋編『日本伝承童謡集成』(三省堂)第3、4巻を参考にした。


 冒頭に登場する「一の宮」は、かつての国ごと最も上位に位置する神社を指す。信濃国ならば諏訪大社だ。


 二番。徳川家康を祭る「東照宮」は「中禅寺」とも歌われる。三番。農民を救った義民、佐倉宗五郎のところは、「三また桜の吉野山」となることもある。


 地域や時代によって歌詞に幅のあるところが興味深い。十番目の東京博覧会は東京二重橋、東京泉岳寺、東京万万歳などと一様でない。


 昭和20年前後、太平洋戦争で都市部は焼け野原となる。食料不足が人々を飢えの苦痛に突き落とす。小学生でも農作業を手伝うのが当たり前だった。雨の日は遊びに興ずる。《一番はじめは一の宮...》と歌声が、楽しげに聞こえてきたものだ。


 往時の記憶を手繰り寄せつつ書店内を歩いていた。すると『お手玉のうた』と題した絵本が目に飛び込んだ。松本市の郷土出版社から出ている「語り継ぐ戦争絵本シリーズ9 学童疎開」である。


 悲しい物語だ。お手玉遊びの大好きな国民学校5年の少女が信州の温泉場に、空襲の脅威を逃れて東京から疎開してくる。お母さんが着物の切れ端でお手玉を作り、持たせてくれた。中にお米が詰めてある。食べ物の乏しい折、米を隠し持っていると疑われるつらい体験にもさらされた。


 そのお母さんは、間もなく大空襲の猛火に包まれる。忘れたくても忘れられない疎開の思い出。だから少女は、お手玉をしていても「信濃の善光寺」のところで手が震え、先へ進めなくなるのだった。


 書店からの帰り、善光寺近くの公園で『お手玉のうた』をたどる。そこに展開する悲話は、はるか遠い日のことのようでもある。そして、ごく近い日のことのようでもあった。

(2012年12月15日号掲載)


 〔集団学童疎開〕終戦前年の1944年8月4日、第1陣が長野県に入る。その年11月までに約2万9000人を野沢温泉、湯田中、上山田、浅間など主に温泉地で受け入れた。


=写真=善男善女でにぎわう善光寺

 
愛と感動の信濃路詩紀行