一番はじめは

一番はじめは一の宮
二また日光東照宮
三また佐倉の宗五郎
四(し)また信濃の善光寺
五つは出雲の大社(おおやしろ)
六つは村村(むらむら)鎮守(ちんじゅ)さま
七つは成田の不動さま
八つは八幡の八幡宮
九つ高野の弘法さま
十は東京博覧会
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これって、歌なの? と、若い世代には全く知らない人が多い。戦時中に少年少女だった70代以上の方々は、口ずさむか、耳にしたことが多分ある。
江戸後期に原型が芽生え、明治半ばから昭和にかけて、全国各地で親しまれた「お手玉唄」の一つだ。「手まり唄」としても、人気があった。口伝えに広まっており、誰が作詞したかは分からない。
曲は旧陸軍の行進曲「抜刀隊」のメロディーが使われている。明治10年代、音楽隊の指導に招かれたフランス人教官、シャルル・ルルーが作ったものだ。

口伝えの歌らしく歌詞には、様々な変化がある。ここでは北原白秋編『日本伝承童謡集成』(三省堂)第3、4巻を参考にした。
冒頭に登場する「一の宮」は、かつての国ごと最も上位に位置する神社を指す。信濃国ならば諏訪大社だ。
二番。徳川家康を祭る「東照宮」は「中禅寺」とも歌われる。三番。農民を救った義民、佐倉宗五郎のところは、「三また桜の吉野山」となることもある。
地域や時代によって歌詞に幅のあるところが興味深い。十番目の東京博覧会は東京二重橋、東京泉岳寺、東京万万歳などと一様でない。
昭和20年前後、太平洋戦争で都市部は焼け野原となる。食料不足が人々を飢えの苦痛に突き落とす。小学生でも農作業を手伝うのが当たり前だった。雨の日は遊びに興ずる。《一番はじめは一の宮...》と歌声が、楽しげに聞こえてきたものだ。
往時の記憶を手繰り寄せつつ書店内を歩いていた。すると『お手玉のうた』と題した絵本が目に飛び込んだ。松本市の郷土出版社から出ている「語り継ぐ戦争絵本シリーズ9 学童疎開」である。
悲しい物語だ。お手玉遊びの大好きな国民学校5年の少女が信州の温泉場に、空襲の脅威を逃れて東京から疎開してくる。お母さんが着物の切れ端でお手玉を作り、持たせてくれた。中にお米が詰めてある。食べ物の乏しい折、米を隠し持っていると疑われるつらい体験にもさらされた。
そのお母さんは、間もなく大空襲の猛火に包まれる。忘れたくても忘れられない疎開の思い出。だから少女は、お手玉をしていても「信濃の善光寺」のところで手が震え、先へ進めなくなるのだった。
書店からの帰り、善光寺近くの公園で『お手玉のうた』をたどる。そこに展開する悲話は、はるか遠い日のことのようでもある。そして、ごく近い日のことのようでもあった。
(2012年12月15日号掲載)
〔集団学童疎開〕終戦前年の1944年8月4日、第1陣が長野県に入る。その年11月までに約2万9000人を野沢温泉、湯田中、上山田、浅間など主に温泉地で受け入れた。
=写真=善男善女でにぎわう善光寺