
長野市七二会市場集落の西方、地蔵堂地内に城跡がある。戦国期には七二会から旧中条村にかけて21村を所領とした春日氏の本城である。
鎌倉幕府と公家方が戦った「承久の乱」で北佐久の春日氏は幕府方の北条氏につき、その戦功によって七二会郷の地頭になったことが始まりといわれる。近年のテレビドラマでは、頼朝亡き後、尼将軍といわれた政子夫人と執権北条義時姉弟の時世で、この戦いによって公家の荘園が崩壊し、武家政権をより強固なものにしたという。
以来、春日氏は戦国時代末期まで戸屋城を本城としたが、武田氏の侵攻が迫ってくると武田氏に降り、武田氏滅亡後は上杉氏に就いた。この時、犀川辺りの笹平城に本城を移したので戸屋城は廃城となる。
高野山蓮華定院に伝わる「村上氏一門の鎧合せ図」を明治時代の画家が複製したものが坂城町郷土博物館にあるが、村上義清18将に春日幸正の名が見られ、戦国期に春日氏は村上氏の有力な武将であった。
戸屋城本丸周辺は近年に整備されたが、山城の遺構は明確にはとどめていない。城跡には家屋が建ち、要害堅固といわれた遺構は消滅している。現在、あずまやが建っている本郭周辺が丘陵地となっているが、善光寺地震や耕作、放牧によって改変されているという。
鎌倉時代から数百年にわたってこの地を支配した春日氏の本城であるが、現状を見ると幾世紀もの変遷を痛感する。1598(慶長3)年、上杉氏の会津移封に従い、会津、米沢へ移住し、その地でも重く登用されたと郡史にある。信濃教育会の書籍によると、春日氏は室町時代中頃に越後から来て戸屋城を築いたのが始まりという説で、佐久の春日郷との関連については触れていない。
春日氏の出自については諸説あり、謎多き春日氏といわざるを得ない。
(2012年12月15日号掲載)
=写真=あずまやがある本丸跡