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11 信大教育学部 〜羽田先生の研究室に 人生に最大級の影響〜

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 教師が天職と信じていた私は、東京教育大学(現筑波大学)を受験しました。入試は、思い出すとぞっとするくらいの不出来。受験勉強もせず、信大があるからいいや、くらいの気持ちだったのですから当然です。そして1957(昭和32)年、信大教育学部2類理科に入学し、羽田健三先生の研究室に入りました。


 生物の研究には屋外調査や実験が付きもの。4年生の卒業論文のための調査を下級生が手伝うのが決まりみたいなもので、私も千曲川河川敷の鳥の生態調査を行う須山才二先輩を手伝いました。村山橋下流にテントを張って泊まり込みで調べるのですが、例えば鳴き声で鳥の種類を判断するとき、先輩と見解が分かれることがあります。


先輩から一目置かれ

 新入生ながら、鳥を追ってきたキャリアは長く、羽田先生からの指導歴では中高大一貫教育でしたから、たいてい私の意見が通りました。一目置かれていたといえば聞こえはいいですが、生意気な学生だったということでしょう。


 2年の秋、羽田先生から「カラスはどこで眠るか知っているか」と尋ねられました。童謡で「カラスと一緒に帰りましょ」と歌われるくらい身近なのに、そういえば、どこに帰って行くのか知りませんでした。答えられずにいると先生は「夕方、野尻湖の弁天島へ行ってみなさい」とおっしゃいました。


 羽田先生はカモの調査で野尻湖を訪れていたから、何かご存じだったのでしょう。示唆に従って野尻湖に行き、夕暮れ時に見た光景は今も脳裏に焼き付いています。夕陽を映して真っ赤に染まった湖面すれすれに、大量のカラスが弁天島のねぐら目指して飛んで来ました。まるでゴマ粒を帯状にまいたよう。必死でカウンターを押し続けて数えると、2500羽を超えていました。


 感動した私は野尻湖通いを開始。あまり熱心に通うものだから、島に渡るのに借りていた貸しボート屋さんから「カラスのあんちゃん」と呼ばれるようになり、ついには無料でボートを貸してくださいました。午後一番に弁天島に渡り、カラスが戻ってくるのを待ち構えては、方向、羽数、照度を記録。通年の調査から、ねぐらに帰る時間を規定するのが照度であり、季節によって羽数が変化することなどを明らかにすることができました。これが私の卒業論文「カラスの集団ねぐら」です。


 羽田先生の指導の方法は、このように一人一人の学生に一種類ずつの鳥を割り当てて調査研究させるのが特徴です。私もそうですが、教育学部の学生は教師になるのが目的で、学者を目指しているわけではありません。学究肌の学生は少数派なのに、脱落者を最小限にとどめつつ、レベルの高い研究をさせていた指導力には感心します。


理不尽も受け入れ

 先生は実力があるだけに、強い個性の持ち主でもありました。ちょうど私が在学中に、内地留学という制度で京都大学に留学し、カモの研究で学位を取得され意気揚々。生態学なら京大と、いわば京大かぶれのようなところがあり、研究室は日の出の勢い。歯に衣着せぬ物言いで、当時の教育界で勢力を持っていた左翼的な思想を批判するものですから、学部内での評価は様々だったと思います。


 理不尽なことも多々ありました。私のポリシーが「理不尽を受け入れる」でなかったら、「鳥類学者」と呼ばれる今日の自分もなかったと思います。私の人生に最大級の影響を与えることになる羽田先生との単純でない関わりが本格化したのが信大時代でした。

(聞き書き・北原広子)

(2013年1月19日号掲載)


=写真=千曲川の河川敷で先輩たちと(左端が私、右端が須山さん)

 
山岸哲さん