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025 初恋 ~初々しく人生の扉を開く~

初 恋      島崎藤村


まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり


やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に

人こひ初めしはじめなり


   ◇

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 日差しが明るい。「初恋」の舞台・旧中山道の馬籠宿は、南に開けた坂の道に沿って家並みが続く。


 かつては中ほどに文豪、島崎藤村の生まれ育った家があった。問屋や庄屋を兼ねた本陣だ。今はその跡に藤村記念館が建っている。


 2005(平成17)年2月の県境を越えた合併以降、岐阜県中津川市の馬籠である。それまでの長野県木曽郡山口村の馬籠ではない。

もう「信州が誇る藤村」とは表現できない寂しさを覚えながら、しきりに観光客が出入りする記念館の黒塗りの門を眺めていた。


 すると、ロマン薫る詩句がよぎってくる。高校生のころだろうか。何度も繰り返しているうちに、いつの間にかそらんじていた。


 おかっぱ頭だった少女が前髪を上げて結い、にわかに娘らしくなる。その美しさに少年の胸はときめいた。赤いリンゴの実を介し、恋心が膨らんでいく。


わがこゝろなきためいきの

その髪の毛にかゝるとき

たのしき恋の盃を

君が情に酌みしかな


林檎畠の樹の下に

おのづからなる細道は

誰が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそこひしけれ


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 初々しさの中に少しだけ熟れた雰囲気が漂うのは、年上の娘のませた色香だろう。隣家には「おゆふ」という、1歳年長の幼なじみがいた。「初恋」の少女のモデルとされる。


 そうだとしても藤村自身は9歳で馬籠を離れ、上京した。16年後、25歳で世に送った詩集『若菜集』を飾ったのが「初恋」だ。


 その間、明治学院に入学し、自由な空気と西洋文学に触れる。明治女学校英文科の教師になってからは、教え子との恋愛問題に苦しんだりもした。


 時あたかも江戸から明治へ、時代は頑強な古い風潮の一方、若者たちに新たな理想を求めさせ、人間としての生き方を模索させる。


 藤村も自ら進んで時流と切り結ぶ荒波に乗り出した。先輩の北村透谷と同人誌『文学界』を立ち上げ、浪漫主義の旗を高々と掲げる。

そういう意味では「初恋」は、木曽の馬籠で原型が芽生え、先駆的な文学運動の渦中で熟成した果実であった。


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 そんな思いを巡らしつつ、馬籠峠を越え、妻籠宿へ歩いて下った。そこは、あのおゆふさんが成人して嫁ぎ、一主婦として生涯を終えたところだった。


 〔文学界〕1893(明治26)年創刊の文芸雑誌。北村透谷を中心に若い同人たちが、恋愛を賛美するなど自我の解放を唱え、詩や評論でロマン主義運動を推進した。

(2013年1月1日号掲載)


=写真=馬籠宿の藤村記念館とリンゴの実

 
愛と感動の信濃路詩紀行