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京都32 祗王(ぎおう) 〜悲劇の白拍子〜

 〈あらすじ〉 白拍子の祇王は平清盛に寵愛されていた。そこへ加賀国から仏御前という白拍子が上洛して清盛に舞を見てほしいと願い出る。清盛は「祇王がいるので舞は十分だ」と言って面会しない。だが、哀れに思った祇王のとりなしで、2人は清盛の前で舞う。すると清盛は仏御前の美しさに心を奪われ、祇王を屋敷から追い出してしまう。寂しく立ち去る祇王に、仏御前は「2人の友情は変わらない」と告げる。

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 平家物語や源平盛衰記に登場する白拍子の物語。平清盛に翻弄された悲劇の女性としては「小督(こごう)」が知られるが、祇王と仏御前もそうだ。この物語を題材とした謡曲「祇王」は、宝生、金剛の2流、観世流では「仏原(ほとけのはら)」として謡われている。


 こちらのあらすじは、旅僧の前に仏御前の幽霊が現れ、「仏御前は祇王に代わって清盛の寵愛を得た一方、追い出された祇王は妹の祇女、母の刀自の3人で出家し、嵯峨で貧しく暮らす。これを知った仏御前は心がとがめ、自身も出家して祇王を訪ねる。祇王は驚いたが、仏御前の決心を知り、快く受け入れて一緒に暮らした」と語る。


 つまり「仏原」は「祇王」の続編のようなもので、この2曲で物語が完結する。この時、仏御前17歳、祇王21歳、祇女19歳。出家するにはあまりにも若かった。


 4人が暮らしたという祇王寺は、嵯峨天皇ゆかりの大覚寺の塔頭(たっちゅう=小寺)の尼寺。法然上人の弟子・良鎮(りょうちん)が創建したという往生院の跡地にある。1895(明治28)年、当時の京都府知事・北垣国道が祇王の物語を知り、嵯峨にあった自分の別荘の庵室を寄贈し、これを本堂として跡地に祇王寺を建てたといわれる。


 祇王寺へは、健脚なら嵐山電鉄の嵐山駅から、奥嵯峨巡りのハイキングコースとして歩けば最適だ。一般にはバスで、前回「百萬」で紹介した嵯峨釈迦堂前で下車すると近い。


 昨年6月上旬に訪れた。紅葉の季節から外れていたが、それでもNHK大河ドラマ「平清盛」の放映もあり、探訪者の姿がちらほら。なだらかな坂道を10分ほど歩くと着いた。一帯はカエデと竹林に覆われ、昼間でも薄暗い。正門は閉じており、狭い脇門をくぐって境内に入ると、祇王らの墓や清盛の供養塔が並び、本堂内には4人の尼僧と清盛の木像が仲良く安置されていた。


 古びた草庵の本堂や、こけむした庭を眺める。若い尼僧たちはこんな「山奥」で、どのように暮らし、生きてきたのだろうか。そんなことに思いをはせた。

(2013年1月26日号掲載)


=写真=祗王寺の脇門

 
謡跡めぐり