
篠ノ井青池の信里小学校前から茶臼山へ通じるトレッキングコースが開設されている。数百メートル進むと、川中島合戦のとき武田信玄が布陣した陣場跡があり、中央には布陣跡の石碑と案内板、武田菱の旗数本が陣所の存在を示している。
布陣のとき旗を立てた9つの旗塚が1列に並び、本陣には必ず立てたといわれる「風林火山」の軍旗が風になびいていた様子を想像させる。武田軍がこの地に陣を構えたのは甲越で激戦となった4度目の戦いの時で、旧暦の8月下旬、5日間この地に滞在し海津城に入った。
今は立木の成長で陣場から妻女山の遠望は困難となった。以前、「妻女山」の項で、上杉謙信の布陣の地を妻女山招魂社の位置と紹介したが、招魂社からさらに徒歩20分程度南方の旧名、斉場山山頂に本陣があった-と訂正させていただく。
陣場跡から茶臼山城跡までは約30分。途中、江戸後期にあった善光寺地震のときの崩落地があり、直下型地震のすさまじさを伝えている。
死者8000人余、全壊家屋2万戸といわれ、東日本大震災を思わせる被害状況である。松代藩は復興費用のための破綻財政が幕末まで解消できなかったという。
4月上旬、前夜の降雪がうっすらと山頂周辺を白くしていた。山頂北面に200メートル余の堀切が確認されるが、ほかに遺構は見られない。山城の資料にも遺構はない旨が記載されており、この山城の存在さえ疑問視している。戦国期以前の時代のもので天変地異で風化してしまったか、または築城者が途中で中止したことも考えられる。山頂周辺は成林した杉林、本丸とした山頂は雑木林であるが、地形から山城を想像することはできない。
青池集落に隣接する有旅(うたび)には「有旅城」「有旅古城」の存在を記載する書籍があるが、城主など詳細は不明で茶臼山城との関連も定かではない。戦国時代、布施地方は布施氏が支配していたので、布施氏との関連が考えられる。
(2013年1月26日号掲載)
=写真=武田軍の陣場跡