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16 志賀自然教育園 〜雑務に追われても 生涯の得難い財産に〜

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 1971(昭和46)年、志賀高原にある信大志賀自然教育園に教育学部助手として赴任しました。雪深い志賀山の麓に家族と暮らしながら4年勤務しましたが、進んで思い出したい期間ではないですね。資料の整理保存は徹底している私が、この間の写真をほとんど残していないのもそのせいでしょう。


 自然園は学生の体験学習の場、大学教官が常駐する研究機関でもあり、自然観察路や展示館は一般にも開放して観光スポットにもなるという多機能型の施設で、今でこそ珍しくありませんが当時としては斬新でした。羽田先生の先見性と実行力のたまものです。


焦りではち切れそう

 私が赴任したのは、秘かに「羽田御殿」と呼ばれていた本館の研究宿泊棟の新築に着手する時で、建設に関わる雑務も私の役目でした。しかも先生は、この志賀方式を県内各地で展開しようとあちこち視察に回っていて、車の運転も私。先生を送り届け、深夜に志賀の山奥に帰るのはつらかったですね。いい研究をしないと先がないという背水の陣の心境だった私は、先生の野望に巻き込まれて時間を浪費しているような焦りではち切れそうでした。


 ただ後になると、志賀での経験が他では得がたい生涯の財産になっていたことを感じました。まず、羽田先生のやり方をつぶさに見ることができました。そもそもこんな大型プロジェクトを一地方大学だけで進められるはずがなく、県や国を動かすのにも先生は奔走していました。関係者に盆暮れの付け届けを欠かさない。中央の役人を紅葉の志賀高原に招いて接待。学者らしからぬ根回しの力はあっぱれでした。


 自然保護に対する姿勢の違いも目の当たりにしました。生態学は自然環境と切り離せない学問ですから、生態学者が自然保護に熱心になるのは当然です。私もゴルフ場建設反対のシンポジウムを行ったことがありますし、野鳥が営巣する草地や藪を一掃してしまう河川改修だって反対しました。


 しかし、河川敷を活用することの利の大きさと破壊のダメージは単純には比べられない。そこで、生態系への影響を最小限に抑えて改変する道を探るのを現実主義的自然保護思想とすれば、開発自体するべきでないというのが理想主義的自然保護思想といえます。


 当時は後者の勢力が強く、前者だった先生には強い風当たりもありました。どうせ負けるならゼロで完敗ではなく、1でもこっちの主張を入れる道を選ぶ先生の考えに私も同感で、後に国の行政との折衝が生じる時などに大変参考になりました。


有名な先生方と人脈

 もうひとつ幸運だったのは、自然園奥の「おたの申すの平」が「国際生物学事業計画」の特別研究地域(代表・北沢右三東京都立大教授)になっていたことです。この地域に生き物がどのくらいいて、どんなつながりをもっているかを調査する壮大な国際プロジェクトで、いくつかの地域を調べて日本の生物資源量を測り、最終的には地球規模の算出をするものです。  


 調査には日本のトップクラスの動物学者や植物学者など約300人が参加していました。羽田先生が地域主任。私は、先生方のお世話と会計が担当でした。後に日本生態学会会長になる大島康行先生、ダニの分類で有名な青木淳一先生をはじめ、そうそうたる先生方との人脈ができ、後に私自身が立ち上げた研究会の代表になっていただくなどお世話になりました。また、私が研究チームを率いることになった時、ここで共同研究の方法を見ていたことが役立ちました。

(聞き書き・北原広子)

(2013年2月23日号掲載)


=写真=後年、息子と訪れた信大志賀自然教育園

 
山岸哲さん