深雪道来し方行方相似たり
(みゆきみち こしかたゆくえ あいにたり)
空は太初の青さ妻より林檎うく
中村草田男(くさたお)
◇

冬の軽井沢は空気が引き締まっている。大地も樹木も凍てつき、凜とした厳しさだ。そんな風情をまざまざとさせる詩趣に富んだ前書きが、冒頭に掲げた一句にある。
「二月三日、義父没後の雑事を果たさんために、出先の地より更に深雪の中を軽井沢町へおもむく。途上にありて、今日は我等の結婚記念日なることを思ひ、今更に十年は経過せりとの感深し」
軽井沢の千ケ滝に妻の父親、福田弘一の山荘があり、新婚のころから夏を過ごした。終戦の翌年1946(昭和21)年1月、その義父が急逝する。
月が替わり、軽井沢を訪れたのだった。当日2月3日が、たまたま自分たちの結婚記念日であることを思い、感慨がわいて来る。
一面真っ白に雪が覆っている。林間の道をたどれば、前も後も判然としない。ここまで歩んできた我が人生の過去、これから進む未来。どこがどう違うのだろう。似たようなものではないのか...。
伝統的な花鳥諷詠を脱し、人それぞれの生き様に踏み込む俳句作法は異色で人間探求派と称された。代表作の一つ「降る雪や明治は遠くなりにけり」の作者という方が、通りはいいかもしれない。

哲学的で難解な句が多い半面、情感をよりストレートに表現した「愛妻俳句」と呼ばれる一群の作品がある。例えば2番目の「空は太初の青さ...」がそうだ。「居所を失ふところとなり、勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」との前書きがついている。
やはり46年のことだ。戦時下、戦争遂行の高圧的な世の風潮に圧迫されただけに、解放感ひとしおだった。
狭い部屋ながらも窓の外は、永遠に変わらぬ空の青さが広がる。それを眺めながら妻の手から赤いリンゴを受け取った。瞬間、禁断の木の実を食べた神話、アダムとイブのごとき悦楽に浸る。
父親が外交官の草田男は、1901(明治34)年7月24日、中国福建省厦門(あもい)の日本領事館で生まれる。少年時代を両親の郷里、四国松山で過ごした。
東京帝大文学部に進んだものの、神経衰弱に苦しみ8年かけて卒業する。教師になり、見合い10回余り。ついに「助けてもらえる」とひらめいた女性と出会う。
翌年結婚する直子夫人だ。明るくてたくましい。草田男は満34歳にして頼りがいのある存在を身近に得た。
八ツ手咲け若き妻ある愉しさに
半年後、妻が2晩留守になった。
妻二タ夜あらず二タ夜の天の川
そして、4年後。
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
これら情感のこもる句を思い浮かべていると、肌に突き刺さる軽井沢の寒気にも、どこかほのぼのしたぬくとさを感じるのだった。
〔人間探求派〕石田波郷や加藤秋邨、中村草田男ら俳句で人間探求をしたグループの呼称。日常生活の意識を表現するのに力を入れた。
(2013年2月2日号掲載)
=写真=雪の積もった千ケ滝の道