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028 愛染かつら ~ひたすら春の到来を信じて~

   旅の夜風

    西條八十作詞

    万城目正作曲


一、花も嵐も 踏み越えて

行くが男の 生きる途

泣いてくれるな ほろほろ鳥よ

月の比叡を 独り行く


四、愛の山河 雲幾重 心ごころは 隔てても

待てば来る来る 愛染かつら

やがて芽をふく 春が来る


    ◇

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 しなの鉄道の上田駅で、上田電鉄別所線に乗り換えた。30分ほど塩田平の穏やかな景色を楽しむうちに、終点の別所温泉駅に着く。


 緩やかな上り坂を約800メートル、歩いて10分足らずで北向観音だ。


 南向きに立つ長野市の善光寺と向き合うように、本堂が北を向いているので「北向き」の名が付いたとされる。厄よけ観音として昔も今も人気が高い。


 いったん車道から階段を下りて川を渡り、再び石段を上がったところが境内だ。右手にカツラの巨木が、見上げてもこずえを視野に入れにくいほど、高々とそびえ立っている。


 北向観音を広く親しませてきた、もう一つの名物「愛染かつら」の木である=写真上。


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 てっぺんまでの高さ22メートル、目通り周囲5.5メートル。幹には深いしわが無数に刻まれ、見るからに堂々とした風格だ。


 強烈にひらめくものを感じたのだろう。東京生まれの小説家・劇作家の川口松太郎(1899〜1985)は別所に滞在中、このカツラと、同じ境内にある愛染堂=同下=を目にした折、代表作の恋愛小説『愛染かつら』を着想したとされる。

    ◇

 2人は、古いかつらの樹の根元に並んだ。

 

 「このかつらの樹につかまって恋人同士が誓約をすると、将来は必ず結ばれるというわけです。たとえ妨げがあって、一時は思い通りにならなくても、一生の内にはいつか幸福に結びつけられる時があるというんです」

    ◇

 大病院の跡を継ぐ身の青年医師・津村浩三。その病院で働く美人看護師・高石かつ枝。2人がカツラの幹に手を添えて愛を誓う場面だ。

 

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 けれども、かつ枝は夫と死別しており、6歳の女の子を姉夫婦に託していた。それを隠して独身が条件の看護師になっている。

 

 だから、自分の秘めた過去と現在を打ち明けられない。愛し合いながらも2人は、別離、すれ違いの苦難にさらされ続けるのだった。


 1938(昭和13)年に公開の松竹映画『愛染かつら』では、浩三を上原謙、かつ枝を田中絹代が演じる。その主題歌が「旅の夜風」だ。霧島昇とミス・コロムビアのデュエットが、映画ともども大ヒットした。


 明日を信じて耐え忍ぶ物語が、多くの人々の共感を呼び、励ましとなったのだろう。


 大雪の直後に訪ねてみると、愛染かつらの木は枝に雪を乗せ、やがて来る春をじっと待つかのようだった。


 〔カツラ〕湿った山地に多い落葉高木。早春、ハート形の葉が出る前に紅色の小さな花を付ける。善光寺本堂の柱に多く使われ、表参道の中央通りでは街路樹になっている。

 
愛と感動の信濃路詩紀行