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66 人が動物に及ばざること

 山羊でも馬でも生まれて間もなく(すぐと言ってもよい)、よろよろしながらも立ち上がり、すぐさま歩こうとし、歩き始める。いま、この世に生を享けたばかりで、いきなり天地自然の風物を目にし、音を耳にし、匂いを嗅ぐのだ。子山羊は洪水のように押し寄せてくるそれらを、何と心得るのであろうか。


 動物はヒトと違って成長が速く、乳離れ、親離れが早い。鳥によく見られるのだが、親から離れたと同時に独り立ちするしかないし、事実そうしているのだ。そのうえ、時間に縛られたり気にしているらしくもない。動物にはカレンダーも時計も、大みそかも正月もない。ヒトと同時刻の空気を吸いながら、全く別の世界にすんでいる。


 縄文人はどんなだったのだろうか。年齢を数えたり、正月を必要としたのか。もし、それらを必要としなかったとすれば、縄文人はヒトより動物に近い存在だったと言えるのか。もちろん、食い物は何一つ作ってはいなかったのだから、シカやクマやリスと同じものを食べていたわけだ。


その極め付きは

 古道や峠を歩く機会が多い。そんな折、林野を跋渉したり、時には山菜を採ったりもする。そんな場合、クマ、イノシシ、タヌキなど山の動物の死骸に遭うことはまずないと言っていい。白骨を見たという記憶もないし、例外はともかく話も聞いたことがない。動物には野垂れ死に(行き斃れ)ということはないのだろうか。


 ともかく山野を住処とするそこに、動物たちの死体なり白骨を見ないというのはどういうことなのか。この世に生を享けたものは、長短の差はあってもいずれは必ず死を迎える。そして誰もが腐敗し、白骨となる宿命を持つ。


 山野の動物たちは荼毘に付されたり、葬儀を営んでもらうわけではない。一年だけでも動物の死はヒト同様、夥しい数であるはずだ。その白骨は足の踏み場もないほどに累々としてあっていいはずだ。何千、何万年ということを考えれば、白骨で山野は埋め尽くされているといっても過言ではあるまい。


 -それがない、という事実をどう考えればいいのか。動物たちはみんなどこへ行ったのか。骨まで腐り果てて食いつくされたとはとても考えられない。彼らは一体、どこに身を隠したのか。いや、いかなる力を持って身を処したのか。


 もはやこれまでと死期を悟ったとき、他からの扶(たす)けを一切求めず、求めようともせずに、土に返ることを本願(本来の願い)としているのであろうか。そこには孤独などという世界をはるかに超えて、崇高なまでの道程があり、不動の覚悟があり、地球の掟に素直に従って逝く法悦境をさえ見るのである。洞穴の中は漆黒の闇であり、己だけのひたむきに純一無雑な世界である。そこに今わの際(死にぎわ)に入ってゆく力と信念は動物だけのものであり、ヒトの遠く及ばざるところだ。


 縄文人はあるいはそれよりはるかに昔の原人(ヒト)たちは、人間というより動物と同様に今はこれまでと悟ったとき、然るべきところに行って身を処することができたのであろうか。


 ヒトは身の処し方については宿命的に動物には遠く及ばないものだ。ヒトの手を借り、扶けてもらわなければ...行き斃れ(野垂れ死に)のまま、たちまち腐敗が進み、蠅(はえ)がたかり、蛆がわき、烏につつかれ、狼に食いちぎられ、やがて髑髏(しゃれこうべ)となり...地獄絵さながらの「むざんやな甲の下のきりぎりす」(芭蕉)となるのは、むしろ納得すべきことなのか。


死地に赴くとき別れを告げるのか

 動物たちはいよいよ最期のとき、誰に知らせることもなく、世話になることもなく、見送られることもなく、振り向きもせず、全く自分事として、ただ粛々として死地に赴くのであろうか。それとも「じゃあね、お先に」と軽く目配せする程度のことはあるのだろうか...。 

(2013年2月23日号掲載)

 
美しい晩年