
「この辺は由緒が多い土地で交通インフラも充実、加えて地域の歴史が半端ではない」と、中心市街地のマンションから引っ越し、南堀(朝陽地区)に念願の一戸建てを持った会社員の石川進さん。
槻井泉神社は南堀の住宅地に鎮座する小体なお宮だ。一帯は浅川の末端扇状地で日照りに悩まされた。ひどい干ばつだったある年、産土神(うぶすながみ)である諏訪神に雨乞いをしたところ「境内のケヤキ(槻)の老木の根元を掘ってみよ」と氏子に夢のお告げがあった。掘ると、神託どおりに清水がコンコンと湧き出て、1844(天保15)年、お諏訪さんが槻井泉という奇妙な社号に変わったという。
元をたどると、この神社は881(元慶5)年、従五位下を授けられている。平安時代に編さんされた天皇家の歴史書『日本三代実録』にも神名があるという。

「神社名の由来は諸説ありまして。この辺はどこを掘っても水が湧きます。それで泉なんとかに...」と、本殿北側に立派な社務所を構える宮司の深沢秀夫さんの奥さん。
「南堀の地名ですが、南北朝のころ、須坂の豪族・高梨氏の所領をめぐる古文書に『石渡...堀郷』と記載されています。高梨氏は新潟の小千谷に発祥した豪族で、千曲川をさかのぼり小布施・中野を含む北信濃一帯に君臨しました。ですから、南堀(北堀は戦国のころ、南堀から分かれた)のルーツは越後になります。江戸時代から明治・大正までは、50〜60軒の大きな農家の集落にすぎませんでした」と郷土史を勉強している石川さん。
それが今や長野運動公園をはじめ、きのこメーカー「ホクト」の本社ビル、山田記念朝日病院などもある住宅地に発展した。「この辺は非常に生産力が豊かな土地でした。神社への奉納も相当な坪数の田んぼや畑があった」と郷土史家の説明だ。
幕末の皇女和宮降嫁の折には、木曽まで助郷(幕府命令の手伝い)に出掛けている。豊かな農村だった証拠だ。槻井泉神社の境内には奉納相撲の土俵=写真手前=まで設置され、神木、狛犬、灯台などもそろって、典型的な神社風景を見せる。日本では珍しい中国原産の「シロマツ」が背丈以上に育ち、園芸好きの人には見ものだ。
(2013年3月16日号掲載)