(ふみ)
隣室に書よむ子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり 島木赤彦
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痛々しい。繰り返し何回読んでも、胸を締め付けられる。哀切感に満ち満ちている。
病身を横たえていると、隣の部屋から本を読む子どもたちの声が聞こえてくる。あの子らのためにも、もう少しだけ生きていたい-。
生への執着がキリキリと、あたかも、きりの先が突き刺さるかのように、鋭く、強く、こみ上げてきたのだ。
諏訪湖を見下ろす急な坂道をたどる。春まだ浅く、最低気温が氷点下10度近くまで冷え込んだ日だった。昼といえども、標高の高い諏訪の寒気はきつい。
アララギ派を大きく育て上げ、近代短歌に確固とした足跡を刻んだ島木赤彦である。居宅だった柿蔭山房(しいんさんぼう)は、諏訪郡下諏訪町北高木に、今も往時のまま、町の文化財として保存、管理されている。

高台を通る旧甲州道中、その家並みから小路を50メートルほど上った所だ。入ってすぐ、樹齢200数十年といわれる松の古木が、ほとんど水平に、横に長く太い枝を伸ばしている。
下をくぐって進む先が母屋だ。江戸時代の後期、1815〜20年前後の建築とされる。分厚いかやぶき屋根が、重厚な雰囲気を醸し出している。一代の歌人が生活のよりどころとした場にふさわしい。
ここの母屋で、1926(大正15)年の3月27日、赤彦は、胃がんの激痛に苦しみ抜いた末、息を引き取った。49歳3カ月、まさに人生の盛りだった。
その1カ月ほど前に詠んだ1首が、「隣室に書よむ子ら...」の歌である。当時、隣室には数え18歳の3女みを、16歳の4男夏樹がいた。
母屋の南東、日当たりの良い角の部屋を、赤彦の新しい書斎に改装中だった。壁を隔てて姉と弟、2人の音読の声が聞こえてくる。
前々から腰や胃の痛みに苦しむ赤彦だった。その年の1月下旬、なじみの医師が胃がんを疑う。歌の道の盟友で医師でもある斎藤茂吉がこれを知り、すぐさま東京に呼び寄せた。
2月1日から13日まで滞在し、東大附属病院などで専門医の検診を受ける。残念ながら間違いではなかった。状況は深刻だった。
没後に発行された歌集『柿蔭集』には、病と向き合った時期の一連の作品が「恙(つつが)ありて」と題されて並ぶ。
神経の痛みに負けて泣かねども幾夜(いくよ)寝(い)ねねば心弱るなり
魂(たましい)はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り
これまで鍛錬道を説き、修行僧のようにいちずな生き方を追い求めてきた。それがにわかに弱気になっている。というよりは、死期が迫ってようやく、素直に心情を吐露できるようになったのかもしれない。死を覚悟すればこそ、人は生きたいと痛切に願うのだ。
(2013年3月16日号掲載)
写真=赤彦の住居「柿蔭山房」
〔アララギ派〕正岡子規の短歌革新運動に共鳴した伊藤左千夫が1909年、短歌雑誌「アララギ」を創刊。島木赤彦、斎藤茂吉、土屋文明らが継承し、万葉調の写生論で歌壇の主流を形成した。