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京都34 俊成忠度(しゅんぜいただのり) 〜謡曲に2曲〜

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 〈あらすじ〉 一の谷の合戦で、平忠度を討ち取った岡部六弥太(ろくやた)は、忠度の短冊を持って、忠度の和歌の師だった藤原俊成を訪れる。俊成が忠度の死を哀れんでいると、忠度の霊が現れ、自作の歌を「詠み人知らず」として「千載集」に載せたことを恨む。


 俊成は平氏が朝敵となっていたので、やむを得なかった、と弁明する。2人で語っていると、忠度は突然、修羅の責めに苦しみだす。だが、和歌の功徳に救われ、明け方に消えてゆく。

       ◇

 平薩摩守忠度は清盛の末弟。近年、その名前から「無賃乗車」の代名詞のようにいわれているが、和歌をたしなんだ立派な武将だった。平家物語を要約すると。巻七「平忠度」では、忠度が都落ちする時、俊成邸に引き返し、「一門の運命はこれまで。しかるべき歌があったら歌集に載せてほしい」と100首余りの和歌を書いた巻物を差し出した。俊成は千載集の編集の際、忠度の「さざ浪や志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな」の1首を名前を伏せて選んだ。


 巻九「忠度の最期」では、一の谷の合戦で平家軍が敗走する中で、忠度1騎が源氏の兵に囲まれた。岡部六弥太と四つに組んで、組み伏せたが、後ろから六弥太の郎党に片腕を切り落とされて討ち取られた。六弥太が相手を調べると、後籠に「行き暮れて木の下蔭を宿とせば 花や今宵の主ならまし」の1首が結んであり、忠度と分かった。


 この忠度を主役とした謡曲は「忠度」と「俊成忠度」の2曲あり、前者が巻九の忠度の武人としての最期を中心に構成し、後者は巻七を中心に脚色してある。


 「俊成忠度」の舞台となった屋敷は、別名「五条忠度」と呼ばれるように、五条通り(現在の下京区烏丸通松原)にあった。この屋敷跡が「俊成町」となり、俊成を祀った小さな神社もあると知り、2011年の秋に訪ねた。ところが、思わぬ苦労が待っていた。


 地下鉄烏丸線の五条駅で下車、松原通りの角の一帯をぐるぐる探し回った。それらしい神社はない。俊成が和歌の神である紀伊国玉津島神社を邸内に分霊した「新玉津島神社」は見つかったが、俊成社は見当たらない。帰宅してから、青いビニールで覆われた建築現場があったのを思い出した。京都の友人に調べてもらったところ、神社と隣のコイン駐車場を取り壊してホテルを新築中で、神社の祠(ほこら)は近くの菅大臣神社に疎開してある、とのことだった。


 1年後に9階建て・客室111のホテルが開業した。祠はなんと1階正面の壁に埋め込まれた。俊成社は生き残ったとはいえ、都会の史跡が次第に追いやられていく宿命の姿を、ここにも見た。

(2013年3月2日号掲載)


=写真=壁に埋め込まれた俊成社

 
謡跡めぐり