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京都35 定家 〜恋歌の相手か〜

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 〈あらすじ〉 旅僧が都の千本辺りで時雨に遭い、雨宿りしていると、一人の女が現れる。ここは藤原定家が建てた時雨亭だと教え、定家と関係があった式子内親王(しょくしないしんのう)の墓に案内し、内親王への執心から定家が葛になって墓に絡み付いていると語り、「私が内親王」と言って消える。僧が請われて読経していると内親王の霊が現れ、読経で成仏できたと感謝し、お礼の舞を舞って、再び墓の中に消えていく。

    ◇


 定家は前回紹介した藤原俊成の次男。父と同じく歌人で、勅撰集『新古今和歌集』の選者の一人。式子内親王は後白河天皇の第3皇女で、高倉天皇は異母弟。俊成に師事して多くの和歌を残している。定家は内親王家の家司(けいし)(家政担当の職員)を務め、和歌を通じてもつながりが強かった。後世に式子の恋歌の相手は定家とのうわさが浮上し、謡曲もそれに基づいて作られた。


 だが、近年それを否定する意見が有力となった。国文学者の石丸晶子は、その著『式子内親王伝 面影びとは法然』で、「式子が恋した相手は、親鸞が終生の師と仰いだ法然上人だった」と断じている。


 石丸説によると、定家は式子より13歳も年下であり、複数の妻を持って妻子を養うのに追われていた。幼い時から賀茂神社の斎院となり、生涯独身を貫いた式子が定家を慕うことは到底あり得ないとし、代わって相手に法然を挙げた。法然が臨終近い聖如房(しょうにょぼう=式子と判明)に宛てた返書が残っており、その内容からみて、2人は相愛の仲だったという。


 2人が知り合ったのは法然が50代、式子が30代半ば。式子は専修念仏を説く法然に強く引かれたが、聖の道を歩む僧侶と、当時は夫を持つことを許されない内親王だった。共に「禁断の園」に住み、かなわぬ恋だっただけに式子の想いは激しく、哀切な恋歌となって吐露された、と推測している。


 以上のような石丸説だと、謡曲「定家」は単なる作り話で空しいものになる。ただ、事実関係の域を超えて、シテに登場する式子は、短歌と同様、能の世界でも愛され、格式高い婦人として演じられている。


 謡曲の舞台は現在の千本今出川辺り。西陣郵便局前の般舟院(はんじゅういん)陵に式子の墓がある。訪れると土日曜以外は開放されていて、中に入ると綱が張ってあり、奥に進めない。だが、目の前に盛り上がった所があり、頂上に五輪塔があった。式子の墓と思われた。


 法然が眠る豪壮な知恩院に比べ、質素な御陵である。法然の式子への返書に「臨終の場には行けないので、先に浄土でお待ちください」とあった。浄土では2人が結ばれていると思いたい。

(2013年3月16日号掲載)


=写真=般舟院陵の正面

 
謡跡めぐり