
安茂里地区の後背にある山地の主峰が富士の塔山で、その山頂に城跡がある。長野郷土史研究会編の書籍では「富士見城」としているが、「富士の塔砦」ともいわれている。
リンゴ園を左右に見ながら、平柴の急坂を上がっていく。旭山観世音を経て林道は山頂直下まで開設されている。
ほかには国道406号の松島トンネル手前から左折し、裾花台団地、国見から山頂直下の林道に通ずるルートもある。
山頂まで徒歩5分で標高998メートルの山頂城跡に至る。東側に虎口があり、本丸に続いて二の郭が西方に認められ、小規模ではあるが安茂里集落との標高差500メートル、裾花川に囲まれた要害の城である。本丸中央には浅間神社が祀られ、お参りすると乳の出が良くなり、かつては遠くから講を立てて参拝に来た-と書かれている。
南北2カ所に展望台があり、長野市街地、戸隠、遠く北アルプスの絶景が広がる景勝地で、小田切八景の一つ-と案内にある。
この城は戦国時代に長野西部に勢力があった小田切氏が使用した。戦国期の城主は小田切駿河守幸長。小市の松ケ丘小学校の場所に居館を構え、塩生の吉窪城を本城とした。
1557(弘治3)年、武田軍が隣接する落合氏、葛山衆が守る葛山城を急襲したとき、小田切氏は葛山衆の援軍として葛山城に入城したが戦死した。葛山城の落城で吉窪城も自落してしまい、武田氏の信濃統治が続いたため小田切一族は衰微し、流転を重ねて末裔は高井郡に居住したという記述が見られる。終始、村上氏の支配下で武田氏に反抗していたことを考えると、富士見城は村上方の重要な山城であったと思われる。
富士の塔に訪う人あらば小田切の歴史を語れ峯の松風(城跡案内より)
小田切氏は鎌倉時代に佐久郡から地頭として赴任して以来、戦国期まで約400年にわたりこの地を支配した。
(2013年3月2日号掲載)
=写真=富士の塔山山頂の本丸跡