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67 猫の生と死(上)

 前回は、動物たちがいよいよ最期のときがやってきて、死地に赴くとき、周りに別れを告げるのか、それとも見送られることもなく、振り返ることもなく、ただ自らの世界に徹して彼の地に粛々と立ち去るのか、を書いた。


 猫が最期を迎えたとき

 猫の場合を取り上げてみよう。犬とともに猫は愛玩動物(ペット)の双璧かと思うが、猫は家の中で飼われ家族の一員として暮らしている。起居を共にしていると言っていい。縁側、物干し場、こたつに丸くなったり、脚を長々と伸ばしたり、時にはふとんの中に入ってきて一緒に眠る。


 野生化した猫もいるが、それでも熊やカモシカのように山中に棲(す)むことはなく、人里からは離れられないようだ。長い年月の間に人間に飼いならされてそうなったのかもしれぬが、本来人間とは浅からぬ因縁がありそうだ。


 猫は死に場所や自分の死体は誰にも見せないで、自分の判断で最期を迎えるといわれてきた。いや、そんなことはない、家の中で死んだという例もある...。実は我が家の猫が末期症状を迎えたとき、最後はどうなるのかと注意深くしていたのだが、暖かい陽射しの中、庭に敷いてある平らな石の上で長々と脚を伸ばし、ゆったりした姿で亡くなった。


 小豆島の方から聞いた話だが「猫は14、5匹飼ってきたのだが、一匹として死に際なり死体を見せたことがなかった」ということだった。猫好きの人にとってはやりきれない話で「長い間、こんなに仲良く暮らしてきた間柄じゃないか、最期のときくらい、せめて別れのあいさつくらいしていってくれよ」と言い聞かせているんですよ、とこんな話をよく聞くのだが-。


 立川昭二氏は生と死に関わって独自の領域を拓かれたが、目をかけていた近所の野良猫の最期を、こんなふうに語っている。「あっ、彼女は別れに来たんだ。私はすぐ彼女のあとをつけて行った。彼女は尻から血をたらしながらヨタヨタといくつもの角を曲がり、山手線(東京の)を横切り、やがて車が疾駆する広い道に出て、とまどっているふうだった。私はその道に飛び出して大手を広げて車を止め、猫を渡してやった。猫の行く方向から、あるいは明治神宮の森ではないのかと思ったが、そのとおりだった。彼女は最後の力を振り絞って竹矢来のある土手に辛うじて飛び乗ると、そのまま、森の中へ消えて行った。私は後ろ姿を見送るだけだった」。こんな内容だったかと思う。


 ヒトは他の動物とは 

 異質の動物

 猫も犬も長い間、人間と仲良く暮らしてきても所詮は人間とは異質のものであることを悟り、何処へともなく立ち去るのであろうか。フランスの哲学者アランは「人間だけが祖先を崇拝する」と言ったが、医者だ、薬だ、延命治療だ、葬式だ、お墓だ、お布施だと、それが悩みだったり、重荷だったり、見栄につながったりするのは人間だけの世界だ。


 別の言い方をすれば、他人や家族に迷惑をかけたり世話にならなければ生きていかれない(死ねない)のが人間だ。


 自死(殺)は人間だけが持つ特権だと言い、人間が他の動物と異なる唯一のものだという話も聞くが、それとても、死後、他人の世話にならず迷惑を一切かけない、というわけにはいかないのである。


 土に帰る

 「土に帰る」は私の大好きな言葉であるが、昭和30年代ごろからの日本人の死のあり方は、土に帰るという最期のあり方からは随分遠ざかったように思う。死の持つ伝統が大きく崩れたと言ってよかろう。


 「動物だけが自然を崇拝する」には深く頷かされるものがある。崇拝が大袈裟なら、自然の持つ輪廻に素直に従っていると言ってもいい。動物に比べれば人間の脳の異常な発達(?)は、ことばや芸術や文化を生んだことの代償として、百八煩悩を背負う結果ともなったといえようか。

(2013年3月9日号掲載)

 
美しい晩年