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68 猫の生と死(下)

 猫は家につき犬は人につくというが

 いつのころからか「猫は家につき、犬は人につく」といわれているようだ。無論、定説はなく、それぞれの方にお聞きしても意見は様々だ。「その通りだ」という人もあれば、「家にもつくが人にもつく」と主張して譲らない人もいる。


 いずれも飼い主としての体験からのもので、それなりに含蓄のある話が多く、愛猫家の意見には説得力があって感服させられている。家につくという側は、猫はどんなに遠くても家に帰って行く、たとえ家主が代わって知らない人が住んでいたとしても帰って行くと言う。人につくという側は、いや、そんなことはない。引っ越ししても猫は飼い主に素直についてきて、すんなりおさまっていると言う。


 人につく、あるいは家にもつくという側の肩を持って少し話すと、家を留守にすると、帰ってきた時に猫が家人の帰りを待っていた様子がよく分かる。布団の中に入ってきたり、膝の上でゴロニャン、ゴロニャンといびきをかきながら安心しきって眠るのは、日常いくらでも見られる光景だ。畑への行き帰りに飼い主についてきて、その辺で遊んでいることなども珍しくない。


 小谷村でこんな場面に出合ったことがある。親子の2匹が田んぼの畦草を刈るおばあさんについてきて、その辺で遊んでいた。ところが夕方になってくると2匹はおばあさんのそばに来て、仕事の邪魔になって危ないくらいまつわりつくのだった。やがて、おばあさんは「猫の言うことを聞いて帰るか」と言いながら、家路に向かった。後になり先になり、緩やかな坂道を上ってゆく猫の軽快な足取りは、何ともほほ笑ましい光景だった。


 神太郎の場合

 わが家の雄猫は10月にちなんで「神太郎」と名付けていたが、子どもだったころは一緒に遊んでくれと、家人によくせがんでいた。どれ遊んでやるかとポーズでも示そうものなら、心得たとばかり、前かがみになって身構えたものだった。あどけなく、甘えることもよく知っていた。一日の過ごし方を見ていると、遊ぶこと、食べること、寝ることが主な仕事だった。


 肢体の敏しょうさは、どんなところから落としても体を自在にくねらせて、足で着地するのはお見事というほかはなかった。ネズミはおろか、小鳥もつかまえてくることがしばしばだった。猫の嗅覚・聴力・視力はどの程度のものかは知らないが、人間とは比較にならず、聞き耳のよさは土の中の様子まで分かるのではないかと思われるほどだった。ふん尿をする場合は、親からも飼い主からも教えてもらったのでもないのに、砂などを箱に用意しておけば、前足の爪先を広げて穴を掘り、そこに用を足して、後でしっかり砂をかけていた。人の遠く遠く及ばないことだ。


 怪猫?

 人間は末期は流動食だの点滴だの、付き添いだ延命治療だのと、他に迷惑をかけて生き延びる手立てを講ずるのだが、動物にはそれがない。大形のキリンにしてもゾウにしてもライオンにしても、死期を悟ってもはやこれまでと自分だけの死に場所を求め、ひっそりと死んでいくといわれている。その死を送る葬列もなく、その死の準備のために他を煩わすことは全くなさそうだ。


 さて、そんな愛すべき猫族にとってはまことに迷惑な話だろうが、猫には魔性があるという話をよく聞く。「怪猫(かいびょう)」とは言っても「怪犬」とは言わない。「化け猫」とは言っても「化け犬」とは言わない。戸を開けて出入りする猫は珍しくないが、戸を閉めたりすると「気味が悪い」と言われそうだ。これが犬だったら「まあ、お利口ね」となりそうだ。


 小林一茶には猫の句がいくつもあるが、その中から。

・猫の子がちょいと押へる落葉かな

・大猫の尻尾でじゃらす小てふ哉


(2013年3月23日号掲載)


 
美しい晩年