
長沼の農家・前島家の仏壇には、先祖の遺品として木製の入れ歯が供えられている。
幕末のある年、「善光寺門前に入れ歯を作る店があるそうだ。わしは歯がなくなり不便をしているが、モノがかめるようになるという。たいそうな金子(きんす)がいるが、今年は稼ぎがあったのでそれを使いたい...」。70歳に近い祖父が家族を集めて宣言した。
「それはいい。じいさまの才覚で我が家の蓄えも増えたから」。息子の発言に家族もうなずいた。前島家は村内で"種屋"と呼ばれる財産家だった。種屋はカイコの卵を養蚕農家に貸し付け、繭の収獲代金で返済してもらって稼ぐ一種の金融業も兼ねていた。
砂糖など甘味に縁のなかった農村でも、虫歯や歯槽膿漏は老化とともに深刻だったようだ。江戸時代には、入れ歯は殿さまや上級武士、豪商だけができる治療だったが、幕末から明治になると、日本の独自技術で庶民の間にも広がった。

1827(文政10)年に江戸で刊行された『諸国道中商人鑑--中山道・善光寺之部』に、門前の入れ歯師の広告が載っている=図版。「日本一家 男女御入歯 口中一切の療治処--信州善光寺大門町 茗荷屋門左衛門...」とある。
歯痛になれば、ナスを焼いた粉末を塗るか神仏に祈るかで、最後は歯を抜くだけ。口調フガフガの老残が日常だったころだ。
前島家の先祖は、長沼から門前まで3,4里(約15キロ前後)の道を3日置きに1カ月も通ったという。入れ歯は使いながら調整したからだ。「じいさんはすっかり気に入り、普段は煙草盆に入れ真綿にくるみ大切に保管した。村中に吹聴したので、金のある仲間も作ったそうだ」。供えの入れ歯はその祖父が亡くなった時、棺桶に入れ忘れたというのが、先代からの言い伝えだ。
当時の技術は--。
(1)軟化させた蜜蝋か堅く練った真粉(しんこ=米粉)をあごに押し当てて陰型を取り、さらに陽型を作る。
(2)あごはホオの木、ツゲ、黒柿を水煮して、陽型を手本に削り出す。
(3)患者の口に入れて修正、微調整-小さな彫刻刀を駆使する入れ歯師の腕の見せどころだった。
(4)歯は、患者の抜けた歯や蝋石、象牙、獣骨をはめ込んだ。
こうして出来上がる木床総義歯=写真=は、江戸時代の根付け工芸などの細密技術が利用された。当時、西欧にも入れ歯はあったが、欠けた部分に獣骨をワイヤで縛り付けるぐらいで、日本の技術は抜群のレベルだった。
ただし、入れ歯師もピンからキリまであり、器用な工芸職人や香具師から江戸の刊行物に広告を出すような店までいろいろだった。代金は1両程度=庶民家庭の年間米代金=にも相当した。
「地方の門前町にもこんな医療技術が広がっていたとは、びっくりします」と、前島家の現当主。現在でも仁王門周辺から南の参道には、薬、醸造、酒、鰹節、種苗、写真館、時計、カメラ、家具、文具などの老舗が多い。城下町と比べ見劣りするといわれる門前町だが、意外に時代の最新情報が多かったことをうかがわせる。
(2013年4月27日号掲載)