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025 フィレンツェ ダンテ 〜権力闘争に巻き込まれて...〜

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 パリのルーブル美術館フランスロマン派の部屋には、「民衆を導く自由の女神」の作者・ドラクロワの絵がある。彼の24歳の画壇デビューは「ダンテの小舟」。古代ギリシャの桂冠詩人ヴェルギリウスがダンテの手を取り、呪われた亡者のいる地獄を脱出し黄泉の川を渡る様を描いている。ダンテの名著『神曲』地獄編がヒントとなっている。


 ダンテ・アリギエリは13〜14世紀にかけてフィレンツェで活躍した詩人であり哲学者・政治家だった。彼の人生には大きく二つの大きな出会いがあった。


 第一は、ベアトリーチェ。2人は同い年。9歳の時に早くも心を奪われ、18歳で聖トリニタ橋で再会し熱病のごとき恋心を抱く。だが、他の人と結婚した彼女は24歳の若さで他界。彼女を永遠の存在として賛美したデビュー作が『新生』だ。その後に書いた『神曲』の3篇もベアトリーチェが天国からダンテを助ける展開だ。


 もう一つは、今も昔もあるドロドロした政治の世界での出会い。当時の北イタリアはローマ教皇庁と神聖ローマ帝国の勢力が覇権争いをしていた。ダンテは教皇派。1289年、血の雨の降る激戦の末、教皇派が勝利したものの、今度は内部対立に。富裕市民層からなる自立政策派の白党と、これに対立する黒党が内ゲバ。結局、黒党が勝利し、ダンテには市外追放と罰金刑が言い渡される。


 これを拒否し、永久追放されたダンテは転々とした結果、ラベンナの領主の元に落ち着く。ここで客死したが、後にフィレンツェが遺骸を戻したい-と再三ラベンナに申し入れたが拒否された。ラベンナ側からすれば「何を今さら」というところか。


 ダンテは二度と故郷の土を踏むことはなかった。いまフィレンツェにある「ダンテの家」もサンタ・クローチェ教会の前の像も皆、後で復権した記念として建てられたものだ。


 フィレンツェのシンボル・花の聖母教会に入ると、ドメニコ・ディ・ミケリーノ作の「神曲の詩人ダンテ」の絵がある=写真。


 隣接する聖ジョバンニ洗礼堂に、こんなエピソードが残っている。


 群衆が洗礼堂で争っているうちに、子どもが大理石の水盤に挟まり溺死寸前だった。ダンテがとっさに斧(おの)で壊し子どもの命を救ったが、洗礼盤を破壊したことで非難される。それを気にして作品の中で弁解をしている。この時代、子どもの命より洗礼盤の方が大事だったようだ。

(2013年4月20日号掲載)

 
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