マントきて我新らしき女かな
松井須磨子
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今では考えられないほど、女性の社会的立場は弱かった。女優に対する偏見も、根強くまかり通っていた。
おおよそ100年前、明治末から大正の初めである。世の旧弊、時代の逆風にめげず、新劇女優という日本では未開拓の道を切り開いていった松井須磨子だ。果敢、けなげな心意気が5・7・5の17音に、きっぱりと潔く、みなぎっている。
しなの鉄道坂城駅から旧北国街道の坂木宿を北へ向かった。正面に戦国の武将、村上義清が拠点とした城跡の残る葛尾山(805メートル)がそびえる。その登り口を東にそれると、曹洞宗の古刹・大英寺だ。

山裾から緩やかな傾斜地が続き、周りには小路を挟んで民家が連なっている。「たたずまいが似ているな」と思った。千曲川の下流、長野市松代町清野の集落とである。
その旧埴科郡清野村字越で、須磨子は生まれた。1886(明治19)年3月8日、本名・小林正子。松代藩士の父・藤太と母・ゑしの、4男5女の末っ子だった。
東、南、西の三方を山懐に抱かれた清野の様子が、葛尾山を背後にし、五里ケ峰や鏡台山の連なる大英寺の周辺と通い合う...。
寺の前の池から眺めつつ思った。そして、あの逸話も、やはり事実ではないだろうか...。そんな感慨が湧いてきた。娘時代の須磨子が、大英寺に身を寄せていたとされる話である。
1903(明治36)年11月、上京中の須磨子は、東京湾を船で渡り、千葉県木更津の割烹旅館に嫁いだ。1年ほどで理由もはっきりしないまま、離縁に追いやられる。
自殺未遂に走るほど苦しんで帰郷し、傷心を癒やしたのが、裁縫教師だった姉の下宿先、大英寺というのである。
ところが、伝記や年譜を幾つか見ても、このあたりの記述は曖昧さを拭えない。05(明治38)年から06年、須磨子19歳、20歳のころの実像がつかみにくい。
もどかしさを抱えたまま大英寺の門前に立てば、「マントきて我新らしき女かな」の句碑が鮮やかに目に飛び込んだ。さっそうとマントを羽織って現れたかと錯覚するほど、彼女の存在を際立たせる。
22歳になり、須磨子は東京で坂城出身の教師、前沢誠助と再婚する。彼の導きで演劇の世界に目覚め、舞台の魅力に取りつかれた。
早稲田の坪内逍遥が率いる文芸協会演劇研究所の第1期生に合格。演劇史や語学などを猛勉強し、誠助と離婚してまで打ち込んだ。そして若き演劇指導者、島村抱月演出『人形の家』の主人公ノラを演じることになる。
それは女性の自立を促す「新しい女」への実に大胆な変身だった。抱月と共に実現した舞台「芸術座」で大飛躍を遂げる序幕でもある。やがて日本の近代演劇に、大輪の花が咲き誇ったのだった。
〔芸術座〕1913(大正2)年、須磨子との恋愛で文芸協会を追われた抱月が、相馬御風らと結成した劇団。トルストイ原作『復活』が大当たりしたが、抱月・須磨子の相次ぐ死で解散した。
(2013年4月20日号掲載)
=写真=大英寺の句碑と須磨子(円内)