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40 根知城 〜信越国境の要害城 村上義清終焉の地〜

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 隣県ではあるが、戦国期に信濃が生んだ勇将・村上義清の終焉の地となった糸魚川市の根知城を昨年12月、訪問した。


 すっかり雪化粧した白馬三山を背に小谷街道を北進、やがて姫川と並行している国道148号から分かれ根知の谷に入る。


 途中、根知城入り口の標識がいくつかあったが、大手口である根小屋集落から登山を開始した。成林した杉林を抜けると、武士たちの館地といわれる根小屋があった。さらに「古城地蔵の館」と書かれた避難小屋を経て、約1時間で城跡に到着する。


 尾根筋に沿って下方から歴代城主が居館とした栗山城、中段に根小屋城を配し、最上段に本城があり、三城を総称して根知城ということである。200以上の段郭と堀切で防備を固めた要害の城であったという。


 尾根筋の歩道沿いにはいくつかの曲輪(くるわ)や堀切があり、本丸を防護しているが、訪れる人は少ないらしく小柴の繁茂した荒れ地と化していた。


 城跡からは越後の山並みが開け、南方には善光寺山や戸倉山。東方に「日本百名山」の一つの雨飾山と駒ケ岳。北方に烏帽子岳など信濃ゆかりの名が付けられており、それらから義清公の心情が偲ばれる。


 東北信濃を支配していた村上義清は、武田信玄に追われ信濃復帰を果たせず、上杉氏から信越国境の要の城といわれる根知城をあてがわれたのが1565(永禄8)年だった。


 この城に8年間在城し、72年の波乱の生涯を終えた。義清公の墓所は根小屋地区の安福寺にあるが、崩壊が進み、こけむす五輪の塔がわずかにその存在を留めていた。5世紀に及ぶ時の変遷を痛感するのみである。


 根知は雨飾山を源流とする根知川に沿って盆地が広がり、いくつもの集落が散在して村落を形成している。


 集落のメーン通りには「村上義清公終焉の地」と書かれた木柱が立ち、根知の人々によって義清公の存在を伝えていた。望郷の念を抱きながら治世に当たった義清公の心情を思い、痕跡が随所に残る根知の谷を後にし帰途に就いた。

(2013年4月6日号掲載)


=写真=手前の尾根筋の下段から栗山城、根小屋城、根知本城の跡(奥の沢が根知谷)

 
続・山城紀行