記事カテゴリ:

41 春日山城 〜日本海望む山頂の本丸 謙信が生まれ没した地〜

41-yamashiro-0420p.jpg

 信越県境を北上し、越後の春日山城跡を目指す。城跡は上越市の西方にある蜂ケ峰と呼ばれる低山の山頂にあり、上越ジャンクションから間近である。中腹にある謙信公の銅像前から登山を開始。


 城跡には至るところに標識があり、説明が丁寧に書かれている。川中島合戦の折、上杉軍のしんがりを務めた甘粕近江守の屋敷跡を過ぎると三の丸である。三の丸には米蔵のほか謙信死後、景勝と跡目を争った景虎の屋敷跡があった。景虎は小田原城主・北条氏康の子で、人質として春日山に送られていたが、謙信から景虎の名を与えられ破格の待遇を受けていた。


 一方の景勝は謙信の姉の子で養子としていたが、謙信は後継者を指名せずに亡くなったため、両者の間で「御館(おたて)の乱」の相続争いが勃発し、この戦いに敗れた景虎は自害して果てた。


 美男であった上に最後の悲話が人々の同情を誘うのか、春日山城では三の丸が最も人気が高く、にぎわいを見せている。


 続いて、時の近衛関白が通った御成街道を進み、景勝公の屋敷跡を経由して山頂の本丸跡に到着する。標高は200メートルに満たないが、上越市街や日本海の海原が遠望できる。山国育ちの筆者は思わず感嘆の声を出すほど眺望が良い。周囲に赤松の古木が立ち、古城の風情を残す本丸を後にし、帰路は謙信公がこもった毘沙門(びしゃもん)堂、直江屋敷跡を経て謙信公銅像前に戻る。


 1548(天文17)年、謙信は19歳で兄の晴景から家督を継ぎ、国内の内紛を治めて61(永禄4)年、32歳の時に上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲られた。


 この年、北信濃の村上氏ら諸将の要請により信濃に出兵し、武田軍と川中島において大激戦を展開した。戦の神様である毘沙門天を崇拝し、領土的野心を持たず、義のための戦いに東奔西走したというのが後世に伝わる謙信像である。


 「越後の龍」と呼ばれた上杉謙信はこの城で生誕し、この城で49年の生涯を終えた。


(おわり)


 ※長い間、ご愛読ありがとうございました。多くの山城ファンによって山城が長く伝承されることを祈ります。関心のある方は拙著『山城紀行』『続山城紀行』を書店でどうぞ。

(2013年4月20日号掲載)


=写真=春日山城跡の謙信公銅像

 
続・山城紀行