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60 正誠の書き付け 〜勝海舟の名前も〜

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 「佐久間象山の門弟、北沢正誠(まさなり)に関する資料が入荷したので見に来ないか」。昨年秋、千曲市の古美術商から週刊長野新聞社を介して、こんな連絡があった。


 桐原の吉田神社近くに移転した後の店を訪ねた。店主(67)が北沢の書を仕入れたのは、昨年8月ごろ。中野市方面の骨董屋仲間から求めたという。

 額に入った幅約50センチ、縦約40センチの書き付け=写真=で、次のように書いてある。


 岩間市兵衛清重公

     門出御甲冑

  壱領 

 並ニ天平御持佛

 明治拾七歳四月参日

  象山先生門人北正   誠記(印)

 飛鳥山櫻賦建碑ニ際  シ勝氏、一覧、供ニ  席上記之(印)


 「櫻賦」の文字や勝海舟の名前もあり、面白い内容だ。文書に出てくる甲冑は、同店に来る前に既に売却されており、書き付けだけだった。値段は3万8000円という。


 北沢は幕末〜明治の政治家だが、母親は素晴らしい女性だったらしい。彼が活躍できた背景には、母・伊勢子の力があったといわれる。伊勢子は1817(文化14)年、松代町で誕生。父は北沢子健蘭壑(らんがく)。蘭壑は真田藩の重臣で、江戸藩邸の学問所教頭や郡奉行も務めた。


 伊勢子も幼くして江戸溜池邸で育ち、箏や和歌を学ぶ。結婚後、44(弘化元)年、松代に移住。48年の善光寺地震で家屋が倒壊。3人の幼児を抱えて艱難(苦しみ悩むこと)流離(さすらい歩く)したが、子どもの養育は厳格を極め、当時の賢婦といわれた。攘夷(じょうい)の議が起こり、正誠が国事に奔走するのを励ました。


 象山が松代に蟄居中には、「箏曲、謡などが風俗を乱す」として、新しい謡を作って伊勢子に作譜させたという。


 伊勢子は64(元治元)年、(京での象山暗殺の報を聞いて)次の詩を作った。

 九重の ちまたにひ  びく いしの弓 我 が大君は 如何にま  すらむ

 (更級郡・埴科郡人名辞書から)



 
象山余聞