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69 犬−野性の持つ美しさと力(1)

 「動物たちの生と死」に関わることを、何くれとなく述べてきて、締めくくりのようなつもりで「猫の生と死」について書いたところ、反響が大きく「次は犬ですね。待ってますよ」と促され、犬を取り上げる仕儀となった。ついでに蛍や牛馬についても触れたいと思ってもいる。


 老い、ここにきわまれり

 千葉市在住のSさんから「私どもにとりまして大変悲しいお知らせをするために筆をとりました」という便りを頂いた。Sさんは我が家から縁あって柴犬の子どもを差し上げた方であるが、その犬が18年の齢(よわい)を全うして死んだという知らせであった。犬の名前は太郎と言った。


 「太郎の昨今は、老いここにきわまれり...前夜オムツをし、セーターを着せ、小屋に抱きこむようにして入れ...家族で火葬、骨を拾いながら改めて太郎の丈夫さを教えられ、18年間家族の一員として...もうこれで犬を飼うことはやめました。死の悲しさと別れには耐えられません。...思えばこの18年間は太郎のやさしさと感謝に満ちたものでありました」


「犬はいづこにゆきぬらむ」

 島木赤彦歌集(岩波文庫)を繙くと、その最後の歌は


わが家の犬はいづこにゆきぬらむ 今宵も思ひいでて眠れる


であるが、これは赤彦が死の1週間前に呻吟の床で口授し、最後の詠となったそうだ。


 ここで「いづこにゆきぬらむ」について憶測を許していただけるならば、赤彦の愛犬は自ら死期近きことを悟って、何処かに死に場所を得て立ち去ったということなのか、それとも自らの死などは予期し得ぬもので、またその思いなどもなく、遊びに出た先でそのまま動けなくなり、死を迎えたということなのであろうか。


 利口な犬は死ぬ姿を飼い主にも見せないということを読んだり聞いたりする。どんなにかわいがられ、長い間一緒に暮らしてきても、結局は人間とは異類のものだということを知り、人間なんて頼りにならないものだということを悟り、何処へともなく死地を求めて消えていくというのである。何ともやるせない話であるが「うん、そうなのか」という思いにもさせられる。


 もっとも身近な動物として

 人類の歴史は500万年を超えるといわれているが、大ざっぱに言ってそのうち499万9900年は足(歩く)の世紀であり、残りのたかだか100年が乗り物の世紀である。そして、ざっと縄文時代までが狩猟採集の時代で、それまでは米だの野菜だのという生産活動は何一つない時代だった。


 こうしたなかで人と犬との友好関係は、考古学の教えるところによれば、縄文以前の旧石器時代、つまり約1万2000年前からだという。犬は人類最初の家畜と言えようし、人間の最も身近な動物として今日まであり続けてきたのだった。人間に飼い慣らされたことにより本来の野性が去勢されたといわれるが、勿論すべてを失うなどということはない。


 犬には人間のまねをして文化なり文明を築いたという話はなく、いつも人に連れ添いながら、人間が野性を失い、動物としての本来のものを失ってゆく姿や創造活動を横目で眺めてきたのだった。


 犬が人間と友達であり続けてきたのは、人間の知恵や努力というより、犬が飼い主に忠実・従順の化身のような存在であったからであろう。


 飼い主に忠実な動物は犬ばかりではないが、人との関わり方は飼われ方といい、お付き合いの長さといい、特別な間柄であったといえようか。忠犬ハチ公の話を持ち出すまでもなく、番犬として猟犬として、牧羊犬として、愛玩犬として、人間が持つ忠実さや従順さなどとは比較にならない純粋な、打算のない、駆け引きのない動物としてあり続けてきたのである。

(2013年4月13日号掲載)

 
美しい晩年