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01 登山は文化 〜真剣勝負で臨む人生道場〜

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 山登りにはいろいろな種類がありますが、私の登山は四季を通じたオールラウンドで、ロック・クライミングも冬山登山にも出掛けます。常に危険と隣り合わせで、まかり間違うと一発で命を落とします。滑落した方の遺体を担ぎ上げたこともありますし、私自身や仲間が危機一髪だったことも一度や二度ではありません。


 それでも、なぜ登るのか。私の登山観ははっきりしています。それは、山登りが最終目標というわけではなく、自分の人生をいかに創っていくかの過程としての登山であるということです。これは73歳になろうとする今も同じです。私にとって山は、常に真剣勝負で臨む人生の道場なのです。


 岩登りの何が魅力かと聞かれて、私はよく「先が見えないこと」と答えます。大きく安定していそうな岩に手を掛けたらググッと動くこともあります。ここで一瞬でも気を抜いたらおしまいです。岩が落ちて下にいるパートナーを直撃する可能性は非常に高い。そっと押し込むようにしてから手を離し、次の岩を探します。


 正直なところ「ここまでよく生きていたな」と感じます。私が登山を始めたころ、母が大反対したのも無理はないと思います。ただ、母は母なりの探究心で「そんなにやりたいなら、私を山に連れて行け」と提案してきました。思案の末、50歳を過ぎた初心者の女性にとってはかなりの難所もある戸隠山を選んで連れて行ったところ、その日から反対しなくなったどころか「次は富士山に行きたい」と言い出しました。登山というのは人間生活にとって必要不可欠な行為ではありませんが、体験してこそ分かる素晴らしい文化だと私は信じています。


 私が本格的に登山を始めたのは1960(昭和35)年でした。ちょうど登山が大衆化する時期と重なります。24団体が参加し、後に私も会長を務めることになる長野県山岳協会が発足したのが61年。当時は未踏の山がまだ多くありましたから初登頂、初登攀(とうはん)が話題になり、それを目指しての登山熱も高まっていきました。


 しかし90年代までに国内はもちろん、ヒマラヤなど世界の高峰もほとんど踏破され尽くし、登山ブームも去ったかのような時期がありました。それが、ここ何年かは中高年や山ガールなど、女性の登山者が増える傾向が続いています。


 私はこの間、会社勤めをしながらアマチュア登山家として途切れることなく国内外の山に登ってきました。イラン人と合同で挑んだネパール・ヒマラヤのマナスル峰の標高は8156メートル。ベースキャンプと頂上の標高差は4500メートル以上です。さっと晴れ間が広がり、てっぺんが見えたときの全員の感想が「あんな所に登れるのか...」でした。それなのに、ひたすら一歩一歩を踏みしめることで、ついにあんな所に立ってしまう。人間の力のすごさ、チームワークのすごさは計り知れません。

(聞き書き・北原広子)

(2013年5月4日号掲載)


=写真=チョモランマ峰のベースキャンプで


田村宣紀さんの主な歩み

1940(昭和15) 上水内郡神郷村(現長野市豊野町)に生まれる

45(20)父・正蔵病死

47(22)神郷小学校入学

53(28)豊野西中学校入学

56(31)長野北高等学校入学

59(34)日本電信電話公社入社。高田電報電話局に配属

60(35)上越山岳会に入会。上越の山で積雪期訓練

62(37)長野電報局に転勤。山岳会/グループ・ド・モレーヌ入会。以後、北アルプスを中心に岩壁登攀、夏季合宿、冬山縦走などに挑戦

66(41)竹前きみ子と結婚

67(42)ペルー・アンデス遠征隊員に選ばれるが、断念

68(43)グループ・ド・モレーヌのチーフ・リーダーに就任

71(46)西アジア登山探検隊隊長として、トルコ、イランへ

76(51)日本・イラン合同マナスル登山隊、秋季初登頂。登攀隊長

77(52)長野県山岳協会理事長に就任

78(53)やまびこ国体山岳競技会(戸隠山群)、県内総務

83(58)台湾・玉山で氷雪を登攀し登頂

86(61)長野県山岳協会会長に就任(94年まで4期8年)

87(62)県山岳協会・中国チベット登山協会友好兄弟協定に調印

90(平成2)県山協・チベット登山協会合同チャンタン高原登山探検隊隊長としてザンセル・カンリ初登頂に成功

91(3)県山協創立30周年事業でシシャパンマ登山隊が遭難、2人死亡。救援のためチベットへ

96(8)日中合同チョモラリ峰登山隊に実行委員長として参加

97(9)県スポーツ振興功績者表彰。山学山遊会を創設、会長に

2003(15)信濃毎日新聞社から『春夏秋冬 山歩きの知恵』出版。以後、中国・ネパールなどにトレッキング

 
田村宣紀(のぶよし)さん