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02 父の死 〜兄が継いだ肥料屋 手伝って体力養う〜

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 私は1940(昭和15)年に、上水内郡神郷(かみさと)村に生まれました。今の長野市豊野町です。家庭環境が特別だったわけでもなく、強烈な体験をしたわけでもない子ども時代の記憶の多くは断片的で曖昧なのですが、脳裏の一番奥の方からぼんやり浮かんでくるのは、人がたくさん集まって泣き悲しんでいる場面です。


 それはきっと、家族や親戚が父の臨終をみとった場面だろうと思います。父の姿は見た覚えがありません。45(昭和20)年2月7日のことで、私は5歳でした。後になって母から聞いたところによると、父は、一人っ子だった母の「婿さん」だったそうです。


病気で満州から送還

 戦争が始まり村の男たちが赤紙によって次々と召集されていくのに、父にはなかなか召集令状が届かなかったそうです。体格が良くて健康なのにという以上に、婿なのにという肩身の狭さがあったようで、父は自ら志願して農業開拓団として満州へ渡ったといいます。


 すでに敗色の濃くなっていた当時の満州で、父がどんな目に遭ったのか知る由はありませんが、結局、父は現地で病気になり送り返されました。それから間もなく自宅の畳の上で皆が見守る中、息を引き取りました。


 残された家族は、祖父母、母、4人の子どもでした。私は、姉、兄、姉に続く末っ子です。女と男が交互で全員が3歳違いという、なかなか規則正しいきょうだい関係です。


 家は肥料屋で、祖父は農家を回って注文を取り、リヤカーに肥料を積んで運んでいました。酒が好きだった祖父は、飲み過ぎてたまに問題を起こすことはあったようですが、孫たちに対してはいいおじいちゃんで、朝は暗いうちから家を出る働き者でした。80歳過ぎまで現役だったのですから、健康にも恵まれていたのでしょう。


 ところが、さすがに年のせいか、ある日、土蔵の中に積んであった肥料の下敷きになって足を骨折してしまったのです。農家に直接肥料を届けることができなければ商売になりません。家族がそろった前で、祖父が兄に「跡を継いでくれ」と頼んだのを、私ははらはらする思いで見ていました。


 高校卒業後、法務局に勤めていた兄には、肥料屋を継ぐつもりがなかったことを私は知っていました。最初は「嫌だ」と言っていましたが、そのうちに「一晩考えさせてくれ」と折れ、翌朝「やります」と答えていました。


 リヤカーを押して

 一世代抜けたものの、跡継ぎができたことを祖父は大変喜んでいましたが、兄の心境を思うと、末っ子の私は守られてきたことを感じます。ただ、実はそれから私も肥料屋の手伝いで大変になってしまいました。


 お得意先の農家は田子や吉の方面に多く、北国街道の坂道をリヤカーを引いて上るわけです。荷物は、重さ10貫の肥料が5袋なので37・5キロ×5=187・5キロ。兄がリヤカーを引き、私が後ろから押すのですが、大変な重労働です。帰り道は、私はリヤカーに乗せてもらって快適でしたが兄はそうはいきませんでした。


 そのときはつらいと思った手伝いも、今になってみれば知らず知らずのうちに山登りの体力や粘り強さが養われるいい訓練だったと思います。

(聞き書き・北原広子)

(2013年5月18日号掲載)


=写真=幼少時の私と母の知枝


 
田村宣紀(のぶよし)さん