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03 少年時代 〜食糧不足で大変な母 米倉庫で薫蒸作業〜

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 大勢の家族の中の末っ子だった私は、父がいないからと寂しかったり困ったりした覚えはありません。大変だったのは母です。特に戦後の食糧不足のときは、4人の食べ盛りの子の腹を満たすのに四苦八苦だったはず。いつも厳しい表情をしていたのも、そのせいだと思います。


 「夕飯が足りない」と言って、フスマつまり小麦の皮をまぜた団子に挑戦したこともありました。パサパサで形にならず、「こりゃダメだ」と。ニワトリの首をギュッと絞めるのも、ヤギを飼うのも母の仕事でした。私はいつも腹をすかしていて、家は貧乏だと感じましたが、当時はどこもそんなだったと思います。


リンゴと養蚕が主

 豊野はリンゴ栽培が盛んです。東京からの買い付けで「リンゴ成金」も生まれた時代です。私の家でもリンゴは作りましたが、栽培も扱いも今のように丁寧ではなく、虫食いだらけ。絵を描いたような跡ができるので「絵図描き」と呼んでいました。絵図描きだらけのリンゴを籠に入れて担いで来ては、ガラガラと無頓着に開けるので傷だらけになるのですが、お構いなしにそれを切って干していました。


 あとは養蚕です。初夏から秋口までのシーズンは、1階も2階もお蚕さまに明け渡し、人間は小さくなっていました。そのおかげか1953(昭和28)年、私が中学生になるころ、祖父が家を新築しました。


 古い家は雨漏りをバケツで受けるような状態だったのに、なぜか子ども専用の勉強部屋がありました。近所の家に遊びに行ってもそんな家はなく、変わっているなと感じていました。母が女学校を卒業しているくらいですから、祖父が教育熱心だったのでしょう。おかげで私も勉強はよくできました。


 同じころ、祖父が米倉庫業を始めました。農家の人たちが作った米を、政府の管理下で流通させるまで保管しておく農林省認定倉庫です。60キロ入りの米俵を、空気が通るように内側を空洞にする「ロの字」型に高々と積む作業は専門の職人さんに頼みましたが、米の中の虫を退治する薫蒸は私が手伝いました。


 薫蒸薬の名前は、忘れもしないクロルピクリン。ナチスがガス室で使ったといわれる毒性の強い揮発性の液体で、密閉瓶入りでした。この瓶とジョウロを持ち、鉤手(かぎて)を使って米俵のてっぺんに上ります。それからジョウロに劇薬を移すと米俵にまき、ジョウロも瓶も放り出して大急ぎでまた鉤手を使って米俵を降り、体一つ分だけ開けてある扉から一目散に逃げ出すのです。


毒ガスを吸い込む

 今のように高性能なマスクはなく、防御はぬらした手拭いで口と鼻を覆うだけ。ところが米俵から降りるとき、この手拭いが外れてしまって、私は毒ガスを吸い込んでしまったのです。その夜は大変でした。とにかく呼吸が正常にできない。スッスッと鼻も口も空振りするばかりです。もうダメかと思いましたが、幸いにも2、3日で回復しました。


 恐怖の薫蒸作業が終わると、倉庫の隙間を新聞紙で密閉して1週間放置します。その間に、光のある方へ逃げる習性のネズミや虫は米俵の外で死骸になっているというわけです。しかもカラカラに乾燥して処理が楽。劇薬のすごさです。こんな危険な方法はさすがに長続きせず、すぐに時限噴射機が使われるようになりました。大きなハプニングのない子ども時代でしたが、これだけは忘れられません。

(2013年5月25日号掲載)


=写真=窓辺にたたずむ少年時代の私