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150 高倉健伝説 〜30年余参拝 ご先祖と再会〜

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 初詣などで善光寺さんにお参りし、はっきり御利益を実感している人はどれほどか?「家族が健康で人並みの生活ができ、大して悪いこともないから、それが御利益かな...」という人が大半かもしれない。


 ところが「善光寺さんのおかげでご先祖と結ばれた」と、御利益を確信している人がいる。東映の俳優になったばかりのころから30年余も善光寺参りを続けた高倉健さんだ。


 1959(昭和34)年の節分会に招かれたのが契機。「健ちゃん、5万円の仕事が善光寺であるんだけど、行ってくれないかな」。会社からの話に駆け出しの男優は飛びついた。自著『あなたに褒められたくて』(1991年・集英社刊)=写真下=に、こう書いている。


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 映画の出演料がまだ1本2万円の時代。翌年は自分で志願して豆まきのメンバーに加えてもらい、3年目からは毎年、参拝客として節分に訪れるようになった。名前が売れてくると、深夜ひそかに参拝を続けた。映画のロケの時など遠くにいても万障繰り合わせて駆け付けた。30年目はニューヨークでロケ中だったが、監督や共演者に頭を下げ、飛行機で日本へとんぼ返りし善光寺へ駆け付けた。


 この間に、健さんのプライベート情報を察知したのが、富山大学の映画好きの学生たち。深夜、本堂の前で待ち、ホットコーヒーで出迎えるようになった。九州の田舎町から上京した若者が、このころには東映任侠路線のトップスターになっていた。


 健さんは門前のホテルに一泊して「これを善光寺さんに」と分厚い灯明料をフロントに預けて立ち去るのが恒例となった。


 どうしてそれほど善光寺に心引かれたのか。自分でも不思議に思っていた健さんはある年、福岡女子大学教授からもらった手紙にびっくり。そこには、こう書かれていた。「あなたのご先祖に小田宅子(いえこ)という女性がいて、150年ほど前に善光寺に参拝し、『東路日記』という紀行文を残されているのをご存じでしょうか」


 健さんの本名は小田剛一(ごういち)。福岡県中間市で生まれた。5代前のおばが宅子さん。「小松屋」という両替商の娘で国学者に和歌を学んだ教養人。53歳のとき、思い立って仲間と伊勢、善光寺、日光、江戸巡りの約5カ月の旅に出掛けた。


 留守番をする旦那は、旅費の手配に加え、荷物持ちと警護に手代3人を付けてくれた。旅費は旅先の両替商から使い放題に調達できた。名所の先々での買い物や遊興とたわいのないおしゃべりを記した日誌が『東路日記』だが、毎日、格調高い和歌を添えてあり、江戸時代の庶民史として高く評価されている。この辺の事情は、田辺聖子著『姥ざかり花の旅笠』(2004年刊・集英社文庫)に詳しい。


 30年余も続いた健さんの善光寺参りだが、次第に長野市民にも知られ「だんだん騒ぎの様相になって、これ以上迷惑をかけたくない」と、謙虚な名優は以後、一人遠くから祈ることに切り替えた。


 健さんが今や"日本一の俳優"になった背景に善光寺信仰があったというのは、少々我田引水の感もあるが、一念発起、信条を持って生きれば必ず御利益があることは納得できる。昔から"再会の寺"がキャッチフレーズだが、ご先祖と思いもよらない再会をした高倉健伝説が加わった。

(2013年5月25日号掲載)


=写真=善光寺の節分会。かつては健さんも豆まきに

 
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