記事カテゴリ:

033 背くらべ ~光る中山晋平の思いやり~

33-utakiko-0504p1.jpg

背くらべ

    海野 厚作詞

    中山晋平作曲


柱のきずは おととしの

五月五日の 背くらべ

粽(ちまき)たべたべ 兄さんが

計ってくれた 背のたけ

きのう くらべりゃ 何のこと

やっと 羽織の 紐のたけ


    ◇

 初夏、こいのぼりが青空に映える=写真上。このごろも千曲市の森将軍塚古墳直下で、100匹ほどが一列になびいていた。須坂市の観光名所、臥竜公園南を流れる百々川(どどがわ)でも、たくさんのこいのぼりが、列をなして川の上を横断していた。


 どれも元気がいい。活力にあふれる光景を目にするたび、「背くらべ」を口ずさみたくなる。口ずさんでいるうちに、一人の親しい顔が浮かんでくる。


33-utakiko-0504p2.jpg

 倉田稔先生。長野市松代町に生まれ、後町小や松代小の校長を歴任した。傍らトンボとかガの研究に打ち込み、自然の仕組み、不思議さを社会人にも興味深く説いて回った。その倉田先生の愛唱歌の一つが「背くらべ」である。


 「先生、そろそろ例の歌じゃないですか」

 「そうかい? それじゃ、ひとついくか」


 先生は手拍子を取りながら歌いだす。やがて腰を落とし、柱に手で横線を刻むようなしぐさを交える。

 〈きのうくらべりゃ何のこと やっと羽織の紐のたけ〉。歌い終わるころ、目には大粒の涙が光っていた。あれは何だったのだろう。今しきりにしのばれる。2012年1月、79歳で亡くなられた。もう尋ねようもない。


 おそらく、各地で共に学び、育っていった大勢の教え子たちの姿が、去来していたのではないだろうか。子どもたち一人一人の伸び行く力、確かな成長への感動の涙という気がする。


 作詞した海野厚も、きょうだい愛が深かった。現在の静岡市に生まれ、4男3女の長兄である。とりわけ17歳年下の末弟をかわいがった。


33-utakiko-0504m.jpg

 上京して早稲田大学英文科に学んでいるころも、5月5日には帰郷して弟や妹と背比べをする。そんな家族の雰囲気を童謡に仕立てたのだった。


 レコード化するに当たり、作曲を引き受けた中野市出身の中山晋平は、2番も作詞するように勧めた。〈柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える〉で始まり、〈一はやっぱり 富士の山〉で終わる、あの2番である。


 既に童謡、民謡、歌謡曲と人気を集め、大忙しの中山だったが、最優先で「背くらべ」を作曲した。若い命を次々に奪う肺結核に、海野が侵されていることを知っていたからだ。


 こうして1923(大正12)年、発表にこぎ着けた。しかし2年後、海野は28歳10カ月の短い生涯を閉じてしまう。


 互いに人の身を思いやる心情こそ、この曲を培った土壌かもしれない。喜びの一方、哀愁も隣り合わせている。


 〔粽〕もち米、米粉、くず粉などをササの葉や竹の皮でくるみ、イグサで巻いて蒸したもの。5月5日、端午の節句に食べる。もともとイネ科のチガヤで巻いたのが名の由来という。


=写真=「背くらべ」の歌碑(中野市)

 
愛と感動の信濃路詩紀行