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034 山頭火の足跡 ~歩いて通わす命との共鳴~

あるけばかっこういそげばかっこう


すぐそこでしたしや信濃路のかっこう 種田山頭火(たねださんとうか)

    ◇

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 夏の渡り鳥カッコウは、新緑のしたたる野山をさまよいながら「カッコウ カッコウ」と鳴き交わす。


 漂泊の俳人、種田山頭火が信州を佐久平から善光寺平へと旅したのは、ちょうどそんな5月の中・下旬だった。今から77年前、1936(昭和11)年のことである。遠く近く、カッコウの鳴き声に出迎えられるようにして、信州入りしている。


 山頭火、54歳。自由律俳句のリーダー荻原井泉水(せいせんすい)が率いる句誌『層雲』で、筆頭格の重きをなす存在だ。心酔する一門の同人が、広く各地にいた。


 誌上で知り合うなどした俳友を旅先で一人また一人と訪ね、ひょう然と現れる。まず、岩村田の関口江畔(こうはん)宅だ。東京から国鉄中央線で甲府へ。佐久甲州街道を歩いて清里で一泊した。5月9日、野辺山高原をタクシーに拾われたり、歩いたりして横断。さらに小海線を使ってたどり着く。


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 途中、八ケ岳山麓辺りで詠んだ句が〈あるけばかっこういそげばかっこう〉とされる。


 待ちかねていた江畔は、子息の父草(ふそう)ともども懇ろにもてなした。父子いずれも井泉水に師事する俳人である。


 5月21日、中軽井沢から浅間山の中腹、峰ノ茶屋を越して草津温泉へ。4泊し、残雪に足を取られながら万座温泉の日進舘に。翌26日7時、霧雨の中を善光寺平へ向かった。


 万座峠を経て山田温泉、須坂へ下る。村山橋を渡り、当時の大豆島村は西風間の風間北光(ほっこう)宅に落ち着いた。約40キロを1日で歩き通したことになる。


 北光、23歳、やはり『層雲』の若き後輩だ。半世紀近く後の84(昭和59)年、雑誌『信濃路』に「山頭火と、五日間......」と題する一文を寄せている。


 その日の夕暮れ、村の悪童たちがわいわい連れ立って、網代傘に地下足袋、ずだ袋を下げた法衣姿の旅僧を、珍しげに案内してきた。一目で山頭火と分かる。


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 翌早朝、カッコウの声とともに起きた。井戸端に出て金づちで鉢の子、つまり托鉢用の鉄鉢(てっぱつ)をたたく。万座峠で転倒した際、ゆがめてデコボコになったところを直しているのだ。


 すると頭の上でカッコウが鳴く。山頭火は空を見上げ、その姿を無心に眺めるのだった。


〈すぐそこで信濃のくにのかっこう〉


 北光の一文には、こう書き記されている。

「徒歩禅」と称した通り山頭火にとって、歩くことこそ修行だった。ひたすら歩き続けることが生きることにつながった。それは同時に、自らの死に場所を求めることでもあった。


 そうであればなおさらカッコウとの雑念抜きの交感が心和むつかの間だったに違いない。


 〔自由律俳句〕5・7・5の3句17音の定型にこだわらず、自由な型で詠む俳句。緊張した言葉と強いリズム感で短詩としての特色を生かそうとした。大正期に盛んになり、『層雲』はその代表的な結社。

(2013年5月18日号掲載)


=写真1=万座温泉の日進舘周辺

=写真2=善光寺の山頭火句碑


 
愛と感動の信濃路詩紀行