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京都39 正尊(しょうぞん) 〜即興の起請文〜

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 〈あらすじ〉 平家追討が終わった源義経が京都に滞在している時、鎌倉から土佐坊正尊(昌俊)が上洛(じょうらく)してきた。義経は兄・頼朝の刺客と察したが、正尊は熊野参詣に訪れたと言い張り、証拠といって「起請文」を読み上げる。夜になって正尊の宿舎を探ると、夜討ちの準備をしているので、義経側も武装して待ち受ける。そこへ正尊勢が押し寄せてきたが、寄せ手は全滅し、正尊も捕らえられた。

      ◇

 この謡曲は平家物語を脚色した。義経が木曽義仲を討ち、平家一門を壇の浦に沈めて、鎌倉の頼朝に面会しようとした。だが、頼朝は梶原景時の讒言(ざんげん)により許さない。それどころか、義経を討つため80余の兵を与えて正尊を差し向けてきた。義経はそれを察知して正尊を詰問するが、正尊は否定し、「起請文」を即興で読み上げた。義経は信じなかったものの機転に感心し、ひとまず杯と静御前の舞でもてなした。


 正尊は捕らえられた後、斬首される。これを機に、頼朝の執拗な義経追討が始まり、義経主従の壮絶な逃避行が始まるのだった。


 正尊の「起請文」は原典には見当たらない。作者の観世弥次郎が、父の小次郎信光が謡曲「安宅」のなかで、弁慶の「勧進帳」を創作したのに倣って作文したものだ。この二つの文と、謡曲「木曽」で義仲の参謀・覚明が読み上げる「願書」が、謡曲「三読物」として重く扱われている。


 夜討ちの舞台は、歴代源氏が居住した下京区の「六条堀川館」で、西本願寺の北にある。この館内に湧出していた左女牛井(さめがい)は、後に千利休も愛用したという京都の名水の一つだった。しかし、第2次大戦時に、防火対策として堀川通りが拡張された際に壊され、跡形もなくなった。


 そこで近くの醒泉(さいせん)小学校が1969(昭和44)年、創立100周年事業として「左女牛井之跡」と刻んだ1.5メートルほどの石柱を建てた。それでも広々とした堀川通りを前に、源氏の本拠地が今や石柱一本だけというのは、いかにも寂しい。


 四条通りの新京極入り口の繁華街に、八坂神社の末社である「冠者殿社(かんじゃでんしゃ)」という小さな社がある。ここには正尊が「誓文払いの神」として合祀されている。商人や芸妓(げいぎ(こ))たちは日頃、駆け引きで若干のうそをついている。そこで「事と次第によっては誓文破りもやむを得ぬ」との正尊にすがり、「うそを洗い清めてもらい、繁盛を続けたい」と無言でお願いする。


 正尊は起請文の中で、14もの神の名を列挙して潔白を誓った。自身がその場違いの神に祭り上げられ、苦笑していることだろう。

(2013年5月4日号掲載)


=写真=左女牛井之跡の記念碑

 
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