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04 高校時代 〜登山家のきっかけに 兄の誘いで笠岳へ〜

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 小学校は今の豊野西小、当時は神郷(かみさと)小で中学は豊野西中でした。約4キロの道のりを9年間通ったのですから、足腰は鍛えられたと思います。それもあってか、また私の筋肉が持久力を要するスポーツに向いているのか、駆けっこはあまり速くなかったのですが、マラソンは得意でした。


 長野北高に進んだのは1956(昭和31)年。卒業するときは校名が長野高校になっていました。 


 高校では放送部に入りました。なぜかというと、機械や電気が好きだったからです。放送部には、アナウンス系が好きなタイプと、私のように技術系タイプがいました。


 頂上に立った感動

 マニアックな先輩たちがいて、共同でアンプを作ったり、夏休みに学校中のスピーカーを出力の大きなものに交換したりと、それなりの活動をしたと思います。天井裏に入り、電線を引っ張って取り付ける作業も面白かったですね。


 後に私が登山家となって、岩登りや海外遠征する様子がマスコミで報道されるようになると、一番びっくりしていたのが高校時代の同級生でした。どうやら登山家というと、見るからに勇敢で冒険心に富んだタイプだと思う人が多いようです。私は山岳部に所属したわけでもなく、特別に勇敢だったわけでもありません。


 山に目覚めたのは高校1年のときです。きっかけは6歳上の兄の幸蔵でした。確か10月下旬のある日、「おい、宣紀。天気もいいし笠岳へ行くぞ」と兄が誘ったのです。この一言がなかったら、私の人生は全く異なったものになっていたでしょうから、幸蔵兄には今でも感謝しています。


 笠岳というのは志賀高原にある山で、今なら道路が整備されて麓まで車で行くこともできますが、当時は山に着くまでが一苦労です。家から長野電鉄朝陽駅まで1時間ほど歩き、須坂まで電車。バスに乗り換えて五色温泉まで行きます。そこから笠岳の登り口まで歩くのに3時間ほどかかりました。


 少しとはいえ鎖を渡した岩場もある笠岳は、なかなかスリルが楽しめる山です。頂上に立つと視界が開け、秋晴れの真っ青な空に雪を頂いた北アルプスがくっきりと見えました。足元の山々は燃えるような紅葉。私はすっかり感動し、山の魅力に参ってしまいました。あの時、もし霧が巻いて何も見えなかったら、その後の登山人生があったかどうかを考えると、山に登る運命だったということかもしれません。


応援に支えられ

 兄としては、山登りはともかくとして、まさかロッククライミングをするようになるとは思っていなかったようです。最初は「危ない」と随分心配していました。しかし山岳会に所属して基本からきちんと学んでいることを知ると、「やるならちゃんとやれ」と信用してくれ、終始応援してくれました。  


 兄は祖父の肥料販売と倉庫事業を継ぎ、さらに勉強して農薬販売に必要な資格も取得する努力家で、家業を拡大しました。後に私が日本・イラン合同マナスル登山隊の登攀(とうはん)隊長になったときは、兄の田村倉庫にお世話になりました。16トンもの荷物を置かせてくれる場所を探すのは容易ではありませんから、非常に助かりました。


 兄は10年ほど前に亡くなりましたが、家業は引き継がれています。笠岳は私の心のふるさとみたいな存在で、何かにつけて登っています。いつも晴れるとは限らないのも、また山の魅力です。

(聞き書き・北原広子)

(2013年6月1日号掲載)


=写真=兄の幸蔵(山田牧場で)