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05 高田電報電話局 〜余暇を生かしつつ 豪雪地で冬山学ぶ〜

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 1959(昭和34)年、長野高校を卒業すると今のNTT、当時の日本電信電話公社に就職しました。私は元々高校を出たら働くと決めていました。もう一社、国鉄にも合格していましたが、電気系が好きな自分に合った職種の方を選びました。


 一番やりたかったのは無線です。しかし、配属は電報になり、栗田にあった電気通信学園の普通部電信課で半年ほど徹底的に訓練を受けてから、新潟県高田市(現上越市)の高田電報電話局に赴任しました。


 時代はトン・ツーと手で暗号を送る方式から、キーボードでテープにパンチして機械的に処理する中継交換式に移行していました。


ライフラインの電報

 今の電報は慶弔など儀礼としての役割がほとんどとなっていますが、まだ電話が普及する前の電報は、まさにライフラインの一つ。人の生き死にから始まって、緊急性が高く重要な連絡がほとんど。速さと正確さを必要とする高度な技を習得した技術集団でした。


 その誇りを全員が持ち、24時間態勢で職務に当たるのですから、職場は活気に満ちていました。私は手先が器用なので、自分で言うのも何ですが技術力は抜群。その上、人の役に立っている実感があるからやりがいも感じ、仕事が嫌だと思った日はありませんでした。


 カナ文字だけだった電報も数年後には今のパソコンと同じく世界標準の文字配列のキーボード仕様になりました。私が自分の世代としてはパソコンにたけているのは、そんな仕事柄が関係していて、文章を書くにも、外国の友人たちと連絡を取り合うのにも役立っています。


 職場が高田になったとき、社員寮に入れると思っていたら同期の中で私だけあぶれてしまい、魚屋さんの2階に下宿することになりました。私以外の2人の下宿人は、いずれも他社の方でした。


 魚屋さんが下宿人を置いていたのは、店で売れ残った魚を有効利用する目的もあったのか、時には鮮度が相当に怪しい魚が食卓にのぼっていたことが印象に残っています。


 当時の私の状況ですが、18歳という若さ、定刻にすぐ帰らないと退社を促されるような職場環境でした。当然、余暇はたっぷりあります。高田は豪雪地帯で、一夜で1メートル積もることもあります。冬は職場の先輩の家の雪下ろしに何回も手伝いに行きました。豪雪と戦うこの地方の生活の知恵を学び、冬山登山にも役立っています。


ハイクでは物足りず

 歌声喫茶、ダンスなど、いろいろなサークル活動も盛んでした。労働運動も活発な時代で、組合活動にも関心があった私は、2回ほど東京までデモに行った経験があります。蒸気機関車で真っ黒になりましたね。


 好奇心であちこち顔を出す中で、ハイキングの会にも参加しました。山の魅力をますます知るようになると、ハイキングでは物足りなく感じるようになります。挑戦心がくすぐられて目覚め、もっとスリルが欲しくなるわけです。登山に向いた性格があるとすれば、冒険心と挑戦心は欠かせないと思いますね。そんなわけで就職から1年後の60年春、上越山岳会に入りました。


 登山の中でも冬山と岩登りは特に専門性の高い分野ですが、まずは豪雪地帯でみっちり冬山を学ぶことができました。訓練の厳しさといったら、それはすごいものでした。

(聞き書き・北原広子)

(2013年6月8日号掲載)


=写真=職場のサークル仲間と妙高山の頂上で(中列左端が私)


 
田村宣紀(のぶよし)さん