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06 上越山岳会 〜新人訓練で火打山へ 初山行が冬山縦走〜

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 上越山岳会には高校の先生や地元のバス会社に勤める人、自営業の人など、15人くらいの会員がいました。一緒に入った新人はほかになく、電電公社からも私一人だけでしたが、先輩方はいい人ばかりですぐに打ち解けることができました。


 初めて参加した会が自分に合わなければ、一直線に山にのめり込むこともなかったかもしれません。今も感謝の気持ちです。


 初めての山行は、忘れもしない1961(昭和36)年3月のお彼岸のころ。先輩の「火打山へスキー登山に行くぞ」という一声から始まりました。上越山岳会は実践主義といいますか、まずは現場に出て体にたたき込み、理論は後という方針でした。


スキーを登山仕様に

 火打山というのは、上信越高原国立公園内にある標高2462メートルの山です。里では春の気配を感じる3月も、山は完全に冬山。私にとっては初めての冬山登山で、山岳会にとっては新人訓練。3泊4日で火打山から隣の妙高山をスキーで縦走しようというものでした。参加者は5人。私は最年少の20歳。一番上の先輩が30歳くらいだったと思います。


 スキーは好きでしたが、豊野付近では畑スキーがせいぜいです。加えて、運転できるように自分で工夫した手製の「運転そり」で遊ぶくらいでした。そんな私がまず教えられたのは、スキーを登山仕様にする方法です。


 今はナイロンシールを貼るだけの手軽さになっていますが、当時はアザラシの毛皮を布に縫い付けたもので、それをスキー板の底に紐でくくりつける方法でした。こうすることで、硬くてジャキジャキのアザラシの毛が斜めに雪に突き刺さり、後ろに滑るのを防ぐわけです。


 確かに理屈ではそうですが、これは実際に使うとなかなか大変な代物でした。というのは、毛皮を縫い付けた布とスキー板の間の隙間に雪が入って凍り、ひどく重たくなってしまうのです。3泊用の荷物を背負った上にスキーを履いての登山ですから、重さが増すごとに過酷になるのは言うまでもありません。


一番重い荷物背負い

 若くて元気な新入りの私は、それも訓練とばかりに一番重い荷物を背負わされました。特に重いものを3種挙げると、まずはテント。今のような軽量高性能のテントと違って当時は綿製の厚い帆布です。ただでさえ重いのに、雪の上で寝るわけですから水が染みて凍りつき一晩で2倍に。これは一番きつかったです。


 火器は「ラジュース」と呼ばれるコンロです。ポンプで圧をかけて石油を温めて気化させることで燃やす仕組みです。真ちゅう製でどっしりしている上、燃料の石油が3、4リットルも必要になります。


 そして食料。山男5人分×3日分となると半端な量では済みません。餅、みそ、野菜などは定番。後年になってからですが、ある食料担当が白菜を持っていったら凍ってしまい、何とかしようとナタで切ろうとしたら、刃の方が壊れたことがあります。リンゴは凍ると粉々になるので使いません。ミカンは凍っても食べられるので大丈夫。ほかには芋干しやスルメなどです。


 25〜30キロの荷物を背負ってスキーを担ぎ、今は妙高高原駅になっている当時の田口駅へ。そこからは豪雪の中を、ひたすらスキーで歩きます。1日かけても笹ケ峰牧場どころか、杉野沢集落からの急登にあえいで「五八木(ごはちぎ)」までたどり着くのがやっと。初日はここにテントを張りました。

(2013年6月15日号掲載)


=写真=豪雪の中、杉野沢集落を過ぎてひと休み