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035 有島武郎終焉歌 ~恋する苦しさを痛々しく~

修禅する人の如くに世にそむき静かに恋の門にのぞまむ


道はなし世に道は無し心して荒野の土に汝が足を置け


雲に入るみさごの如き一筋の恋とし知れば心は足りぬ 有島武郎

    ◇

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 緑まぶしいカラマツのこずえを透かし、木漏れ日が差し込む。北佐久郡軽井沢町三笠山、旧三笠ホテルに程近い。木々に囲まれた小高い台地に「有島武郎終焉地」と、大きく刻まれた碑が立つ。


 かつて有島家の別荘「浄月庵」があったところだ。ここで、いったい何が...。碑と向き合いながら、しばし沈黙の時を過ごした。


 深夜に鉛筆を走らせた有島の一文が、頭の中を駆け巡る。

 〈山荘の夜は一時を過ぎた。雨がひどく降っている。私達は長い路を歩いたので濡れそぼちながら最後のいとなみをしている。森厳だとか悲壮だとかいえばいえる光景だが、実際私たちは戯れつつある二人の小児に等しい。愛の前に死がかくまで無力なものだとはこの瞬間まで思わなかった〉


 心許せる学生時代からの友、出版社経営の足助素一に宛てた遺書の後半部分だ。


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 直後、1923(大正12)年6月9日未明、1階応接間のテーブルに椅子を重ね、和服用のひもで首をくくった。享年45。死を共にした「婦人公論」の記者、波多野秋子は30歳。


 ほぼ1カ月後の7月6日、別荘管理人が2人の腐乱死体を見つける。そして東京都内の有島の自宅には、短歌10首が残されていた。


 例えば、禅の修行さながら泰然と恋に臨む覚悟が詠まれている。あるいは絶望的な前途に踏み出そうとする自分への励ましであり、大型のタカの一種ミサゴがいちずに上空を目指すような恋への憧れである。


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 有島武郎は大正時代を代表する作家の一人だ。代表作『或る女』では、封建的な壁の厚い世の中で近代的自我に目覚めた女性の闘いと挫折を丹念に描いた。自らの姿を重ね合わせてのことだろう。


 現実直視に傾いた明治の自然主義文学に抗し、理想主義の旗を果敢に打ち立てた白樺派の中でも、思想的・哲学的作風を際立たせた。それは新たな時代を予感させる社会主義的気運との相克でもあった。


 共感する一方で豊かな資産家に生まれた自らの存在に、後ろめたさを覚えざるを得ない。創作的にも行き詰まった時、作家と編集者の関係で出会ったのが美しい人妻、秋子だ。


 急速に深まる仲を秋子の夫は、姦通罪や高額の慰謝料で脅す。既に妻を亡くしていた有島の純愛は、俗世間の攻防に耐えられない。風呂敷き包み一つ抱えてたどり着いたのが、避暑にはまだ早い雨の季節の軽井沢だった。


 〔白樺派〕大正期の文学・思想潮流の中核を担ったグループ。明治43年創刊の雑誌「白樺」を拠点に、人道主義の立場を前面に押し出す。武者小路実篤、志賀直哉、里見とんら多くが学習院の出身者だった。

(2013年6月8日号掲載)


=写真1=有島武郎終焉地の碑

=写真2=碑に刻まれた文字


 
愛と感動の信濃路詩紀行